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梅雨
遥は「ええー?」と不満の声を上げた。
梅雨入りしてすぐのことだった。隆人が俊介を伴って昼間から遥のマンションにやってきた。外は雨だが、この部屋には雨音がほとんどしない。
「また俊介を外すのか?」
肩身の狭そうな俊介を庇うように立つ隆人が子どもを諭すように言う。
「聞き分けろ。俊介には修行の時間が必要なんだ」
「武術系?」
「そうだ。剣術、柔術が複合した加賀谷独自の流派の中でも桜木家の当主は特別なんだ」
遥は特別の意味を察して、それでもなお皮肉っぽく言い返した。
「特別、ね」
「ああ、そうだ。だから世話係の任を解く」
俊介が半歩進み出て深く頭を下げた。
「ご不便をおかけして申し訳ございません。今のわたくしはわたくしの認める技量の範囲を下方に逸脱しております。これでは鳳様、凰様のお役に立てません。どうかご容赦ください」
「どうしてそんなことになったんだ。俊介は大の稽古好きだろう?」
遥の問いに顔を起こした俊介が隆人に視線を送るのがわかった。答えは隆人から帰ってきた。
「この前の任務で俊介は稽古のできない状態になっていた。自由にふるまえない状態にな。その期間は一ヶ月半だからお前はわずかと思うかもしれない。だが、俺達からしたら取り返すのに早くてその期間の三倍、完璧を期すなら六倍を想定する」
「六倍!?」
「それだけ筋肉の衰え、精神の集中に影響が出ている。しかも桜木の奥義は一子相伝で今の俊介には師匠がいない。自ら剣技を研ぎ直さなくてはならないんだ」
遥は俊介を見てから、隆人を見上げる。
「たった一人で?」
「その通りだ。外部とのやりとりは遮断して一人で、だ」
遥は俊介に視線を戻した。
「今までもそうだったのか?」
「はい。父が亡くなってからは誰にも見せることなく一人で修行して参りました」
俊介が目を伏せた。
「こたびの状況はわたくしの存在の根本に関わる悪しき状況です。なにとぞご理解を賜りたく存じます」
遥は肩をすくめた。
「わかった。もともと反対する気もない。必要なことだと聞かされれば納得する。どこに行くんだ? 戻ってくることはあるのか?」
「どこへ参るのかはお答えご容赦ください。何分桜木の奥義が関わることにございますれば。申し訳ございません。ただ――」
俊介が考えるようなそぶりを見せた。
「夏鎮めには、おそらく一度は戻ることになるかと」
「そうだな、その時には任を戻そう」
「夏鎮めって何だ!?」
遥の勢いに俊介はわずかに苦笑し、隆人は呆れていた。
「仏教徒と違って盆の習慣のない我々の夏休みだな。梅雨が明けた頃に夏が暑くなりすぎないよう鳳凰に祈りを捧げる祭のようなものだ。その時はまた本邸に行って儀式を行ってもらう」
遥は舌を出した。
「どうせセックスするんだろ」
隆人が大仰に感心した。
「よくわかったな」
「そういう一族だよ、加賀谷ってのは」
遥はもう一度舌を出しかけて、隆人に首を捕まえられた。
「わっ、放せよ」
「これが俺の凰なのだから本当に始末に悪い」
「うるさい。儀式の時以外の俺は自然体なんだ」
隆人は顔をしかめて手を放した。
「まったくああ言えばこう言う。口の減らない奴だ」
「口は一つしかないので減りません。減ったら隆人がキスできないです」
今度こそ隆人が盛大にため息をついた。
「そんなに俊介を放したくないか、時間稼ぎの駄々をこねて」
遥はきょとんとしてそれから頷いた。
「そうみたい」
俊介が小さく頭を下げた。
「夏鎮めにはお供をさせていただきますので、ご容赦ください」
「わかったよ。納得するまで鍛え上げて戻ってきてくれよ。それが俊介の信じる道であり、隆人のためだというのなら、俺は喜んで見送らなくちゃな」
「ありがとう存じます」
「それにしても奥義が一子相伝なら、俊介はそろそろ結婚した方がいいんじゃないのか? 修行もいいけど、婚活もした方がいいぞ」
隆人が遥の髪をかき混ぜた。
「お前は俊介の心配より今日の書道の心配をしろ」
「あー、練習するつもりだったのにやる気が失せたー」
隆人にそう混ぜっ返しながらも、俊介の表情が幾分硬いのを遥は見逃さなかった。ただ、今の自分の置かれている状況に悩んでいるからだろうと想像した。体の変調に苦しんでいると遥が気がつくことは無理であった。
ダイニングテーブルに両の肘をついて遥は頬を手で支えていた。
そんな遥に茶菓子の栗蒸し羊羹と茶を出したのは桜木則之である。
「則之、そこに座れ」
遥は自分の目の前の席を指さす。則之は俊介と違い、こういう時の遥に抵抗しても時間の無駄とよくわかっている。すぐに腰を下ろした。
「なんでございますか?」
則之は両手をテーブルの上で組んで話を聴くポーズを取った。こんなところも堅苦しい俊介とは違うところだ。
「俊介のことだけど」
「はい」
「浮いた話はないのか?」
則之は驚きもせず答えた。
「俊介から女性を好きになったという相談は、受けたことがございません」
遥は苦笑した。
「またずいぶんはっきりと返事が返ってきたな」
則之が頬を緩める。
「遥様は、俊介がわたくしにならその手の話を相談するかもしれない、とお考えになったのでございましょう?」
「その通りだけど」
「残念ながら、仕事一筋、隆人様一筋で来てしまったので、そういう相談を受けたことはございません」
遥は羊羹を黒文字で二つに割る。
「困るだろう、それじゃあ」
「その通りでございます」
「モテないのか?」
則之が微妙な顔をした。
「あの容姿ですから一族外の方には遠巻きに騒がれたりはいたしましたが、大前提として桜木家当主は一族内で相手を見つけないといけないのでございます」
口に運ぼうとした羊羹が落ちた。
「そうなの?」
「はい」
遥は黒文字をおき、テーブルの端に腕を重ねておいた。
「五家の中で捜すのか?」
「それが一番妥当でございますね」
「相手、いる?」
確か俊介の母親は樺沢家の出身だと聞いた気がする。樺沢で俊介に会う年回りの女性はいるだろうか。
「碧と紫は?」
「今鳳様側の世話係を務めておりますので、難しいかと」
「他に誰かいないのか?」
遥は頭を抱えた。何だか俊介が不憫だ。
則之が静かに口を開いた。
「桜木家の当主がどういう存在かは隆人様よりお聞き及びかと存じます。それを知ってなお結ばれたいと思う女性が今いないのでございます。
わたくしどもは一代限りの許しを得て一族に戻っておりますれば、次の世代がどうなるかは我らの働き次第。どうなるのかわからない状態で、我が子を桜木に出したい親御さんもいらっしゃいません」
遥は食い下がった。
「それでも、だれか一人くらいはいないのか? 俊介はあんなにいい奴だぞ。ちょっと杓子定規だけど真面目で、美形で。捜したっていないぞ」
「わたくしもそう思います」
微笑んだ則之がいったん伏せた目を上げた。
「俊介を好いてくださっている方はいらっしゃいます」
「え? それならその人と――」
則之の手のひらで押さえられた。
「身分違いなのでございます」
遥は顔をしかめた。こういう話は慣れない。
「誰なんだよ、その相手って」
則之は静かに答えた。
「分家第二位東家のご息女、綾様です」
遥は目を丸くした。
「東家って、あの美容師の?」
「はい、克己様の妹君です」
分家と言えば隆人と対立している存在だ。その第二位の家ともなれば完全に敵だ。分家上位と五家では身分が違うというのもわかる。
「それは、また、ずいぶんなロミオとジュリエット」
「ジュリエットの片思いでいらっしゃいますが」
「ああ、そうなのか」
「しかも、克己様が御家業の不動産業をお継ぎでないので、綾様に婿をおとりになって東家の仕事をなさっていくという噂もございます」
ボタンが掛け違った世界をのぞいているみたいだった。
「どうするんだ、それじゃあ」
「最後は隆人様がお探しになるのでございましょう。
桜木当主は加賀谷の当主の懐刀と呼ばれます。暁様にも懐刀が必要でいらっしゃいますから」
遥は黙って羊羹を食べ始めた。
こういう話を聞いていると自分が別世界の人間だと思えてくる。
「よろしいですか?」
立ち上がりそうな則之を引き留めた。
「則之には相手はいるのか?」
則之はにっと微笑った。
「あいにくと私にもそういう相手はおりません。まずは俊介待ちですね」
その表情があまりに明るくて遥はほっとした。桜木家の地雷を踏んだ気がしていたのだ。
「隆人さんが強権発動するんじゃなくて、俊介が好き合う人を見つけられたらいいな」
「本当にそう思います」
則之がしみじみと言った。
梅雨はまだまったく開ける気配を見せていない。
――梅雨 了――
――籠の鳥 「春から梅雨」 了――
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