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月が綺麗な夜に。

「みんなもう帰ってるだろうな…」 契約している駐車場に車を止め、思わず独り言が漏れた。 今日最後に立ち寄ったお得意様で、社長から愚痴のような自慢のようなよくわからない話しを聞いていたらあっという間に外は暗くなっていた。 駐車場に着いた時には8時を過ぎていた。 ひやりとする首筋と腕に、上げていたYシャツの袖を下ろした。 ついこないだ花火を見た気がするのに、朝晩はもう秋になっていたんだな。 鞄と上着を脇に抱え歩き出し、ネクタイを緩める。 ポケットの携帯が震えた。 開いてみると妻からメッセージがきていた。 「今日は月がとても綺麗だよ。 気をつけて帰ってきてね」 もうすぐ帰るよ、と綻ぶ頰をそのままにメッセージを送り携帯をポケットに戻しながら空を見上げる。 もう少しでまんまるになりそうな月が暗い空に浮かぶ。 会社近くまで来ると知らずに肩の力が抜ける。 ビル1階のコンビニに寄り、妻と娘の好きなプリンを買ってビルのエレベーターに向かう。 エントランスとも呼べないような空間を横切った時、人影が見えた気がして脚を戻した。 狭く薄暗いエントランスの隅に見えた人影は藤次郎さんと響子さんだった。 吹き抜けになっているため月の明かりが降りてきて、まるで淡いスポットライトを当てられているように見える二人。 藤次郎さんの大きな手が響子さんの髪に伸びる。 それを避け、響子さんがエントランスを見上げた。 「月が………綺麗ね」 「響子ちゃんの方が綺麗だけど、……『死んでもいいわ』」 ふふっと笑った声が涙声に変わると藤次郎さんがもう一度手を伸ばす。 大きな手にそっと抱き寄せられた細い身体は隠されるように見えなくなった。 これまで一人で頑張ってきた響子さんを、これからは俺が護るんだという宣言のように。 響子さん、いいんだよ。 生涯あなただけと誓った人が、悲しいことだけど間違ってたり、合わないと思い知ることもある。 籍を入れ誓う前に解ればそれが一番いいけど、そう上手くいかないこともある。 きっと紘都くんから父親を無くしてしまったことをずっと責め悔いていたんじゃないかな。 父親がいなくても紘都くんはお母さん思いの優しく逞しい子に育ってる。 藤次郎さんがきっと言ってくれる。 よく頑張ったね、と。 これからは俺も一緒に頑張るよ、と。 重なるような影はいつまでも離れず、僕はエレベーターは使わず階段で事務所に向かった。

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