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「た、たった一人だけって誰のことだよ、べ、別に志摩センセェとはそんなんじゃねぇッ」
……そういや、昨日、この人に「抱いてみたいな」って発言かまされてたっけ。
志摩の過去が知りたくて、阿久刀川がオーナー兼店長を務めるこの店へなりふり構わずやってきた岬だが。
急に警戒心がぶわりと頭を擡げて距離をとろうとすれば。
素っ頓狂な洋食レストランのオーナーはすかさずヤンキー淫魔の肩を抱いて自分のすぐそばに引き留めた。
昨日、顎クイされたときと同様にワナワナする吊り目を愉しげに覗き込む。
黒曜石の瞳を酷薄そうに煌めかせて。
「僕達と3Pしてくれたら教えてあげる」
「は? さ、3P? 僕達?」
「あそこのVIP席でどうかな」
「は!? つぅかなんで洋食店にVIP席なんてあるんだよ!?」
「この店、元はバーだったんだよ」
ああ、なるほど、道理で、なーんて納得する余裕もなく。
どんどん距離を狭めてくる阿久刀川に岬が完全に逃げ腰でいたら。
「やめなさい」
ばしゃッ
カウンターで黙々とグラスを拭いていたはずのスタッフが、そのグラスにミントウォーターをなみなみと注いだかと思えば、雇用主である阿久刀川に向かって……ぶっかけた。
「未成年になんてこと持ちかけてるんです、この恥知らず」
明らかに怒っているスタッフ、ポカンとしている岬を余所に、ミントを頬にくっつけて主に顔面をびっしょり濡らした阿久刀川は朗らかに笑う。
「これこそ正に水も滴るいい男だね」
岬は益々ポカンとし、肩を竦めたスタッフは清潔なタオルを雇用主の頭目掛けて放り投げた。
「ついでに濡れたカウンターも拭いておいてください」
……なんか第一印象と違うな、このスタッフ。
……薄幸そうで気弱っぽいイメージだったけど、実は気ぃ強いんだな。
「岬君、でしたね、どうぞ」
冷蔵庫で冷やしておいた、ガラスの器まで程よくひんやりしたデザートのチョコレートムースを持ってきてくれた彼を、岬は繁々と見上げた。
「あんたも淫魔かよ?」
「クロはヒトだよ」
答えたのは、ただタオルで濡れた顔を拭くだけでも洗顔料のCMみたいに爽やかで絵になる阿久刀川だった。
「クロ? 猫みてぇな名前」
「そう。みゃあみゃあ泣きながら夜の街を彷徨っていたから拾って保護したんだ」
「あんたね……」
クロと呼ばれた店員は阿久刀川を「あんた」呼ばわりして額に手を当て、ため息をついた。
そこへ。
開店前のレストランに二番目のマナー違反なる客が訪れた。
「げ、志摩センセェ……」
スタンドカラーでチャコール色のダウンジャケットを着込んだ志摩が赤と黒のひしめき合うフロアを進んでやってきた。
「こんにちは、黒須 さん」と最初に店員に声をかけ、次にカウンターに並んで座っている岬と阿久刀川に目をやる。
「どうして髪が濡れてる阿久刀川の隣で岬がチョコムースを食べてるのか、経緯を聞いていいか」
まさかの志摩の来店にスプーンを咥えたまま呆気にとられていた岬は。
無表情でいる担任をキッと睨んだ。
「志摩センセェが俺に何も教えてくんねぇから阿久刀川サンに聞こうと思ったんだよ」
「懸念した通りだな」
「は?」
「もっと早めに来るべきだった」
志摩は無表情のまま肩を竦めてみせた。
いつも通りの淡泊な態度に岬は苛立ち、甘過ぎない味わい深いチョコレートムースを一気にバクバク食べてしまった。
「帰るぞ」
「帰んねぇよ! そもそもココは阿久刀川サンの店だろーが! センセェに命令権ねぇからな!」
荒い身のこなしでスチールから立ち上がり、虚無を飼育する鳥かごの傍らに立っていた志摩と対峙する。
知りたい欲が高まって暴走気味でいるヤンキー淫魔を黒縁眼鏡越しに冷静に担任は見下ろした。
「お前は俺のいち生徒だろ」
瀟洒なシャンデリアがスポットライトみたいに二人を照らしている。
「教室じゃなくても担任の指導には従うように」
……そんなん、ずりぃ。
……こんなときだけマトモな教師ヅラしやがって。
「クロ、志摩にもお水をかけないと、志摩こそ未成年の生徒に手を出してるんだから」
担任と生徒によるしんみりした空気を阿久刀川の台詞が台無しにする。
狼狽えるでもない志摩は、カウンターの内側で返答に窮している店員の黒須に向けて言った。
「迷走して、足を踏み外して奈落にまで落ちないよう、同種の教師として可能な限りの手助けをしているだけです」
ブルリと震えた岬の肩。
志摩は気づいたが、特に触れず、生徒が食べたデザートの料金を払おうとした。
「結構です、初めてのお客様向けのサービスですから」
「そうですか。ありがとうございます。また近々、スペシャルメニュー、食べにきます」
「志摩先生は追加してナポリタンも食べてくれるから作り甲斐があります」
志摩は常連だった。
阿久刀川が家賃を受け取ろうとしないので、代わりに彼がオーナー兼店長を務めるこの店で時折食事をするようにしているのだ。
「俺の生徒にオイタするなよ、阿久刀川」
「僕は岬くんの自主性や行動力を尊重しているだけ。一度抱いてみたいのは事実だけど」
「また水浴びしたいですか、店長」
志摩に連れられて退店しようとしていた岬の背中に黒須は声をかける。
「またいつでも食べにおいで、岬君」
立ち止まった岬は、俯きがちに振り返ると、小さな声でボソリと「ごちそーさまでした……」とお礼を述べた。
結局、妹サンについては特に教えてもらえなかった。
同種の教師として可能な限りの手助け、かよ。
それだけなのかよ、志摩センセェ?
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