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「志摩センセェ、あの妹のひとに好かれちゃったのか?」
欄干に両腕を乗せて尋ねてきた岬に志摩は返事をしなかった。
兄に拒まれ、母親に目撃され、妹はショックの余り泣き出した。
ただ泣くことしかできなかった。
乱暴されていないと否定することも。
自ら服を脱いだと肯定することも。
何一つ、できなかった。
志摩もまた否定も肯定もしなかった。
自分に非があるように無言で装い、双子の妹を襲おうとした穢 らわしい兄という濡れ衣を敢えて纏い、唯一の片割れを庇った。
『四年間、必要な生活費は送金する、ただ二度とこの家には戻ってくるな、お前は家族の恥だ、わかったか』
母親の報告を受け、父親に勘当を言い渡されても、もう、何一つ言い訳しなかった。
やっと。
これでやっと自分から家族を解放できる。
そう思った。
「妹を誑 かした罪で俺は勘当された」
日の名残りが宵闇に徐々に食い尽くされていく。
幾度となく目に焼きつけた光景に志摩は後悔を手向けた。
「もっと早く離れるべきだった」
「それ、志摩センセェが悪ぃのかよ? 誰も悪くねぇだろ?」
過去の逡巡が息を吹き返す情景から、ずっと自分を見上げていた岬の吊り目に担任の焦点は移動した。
「それに早く離れてたとしても、あの人、昨日みたいにセンセェのとこに来るんじゃねぇの? 結婚してもセンセェのことまだ好きなんじゃねぇの?」
「近親相姦はタブーだって知ってるか、反抗期ちゃん」
「し、知ってるし、んな言葉、こんなとこで使うんじゃねーよ」
急に岬が周囲を気にするように背後を見回し、慌てる生徒の様子に志摩は声を立てて笑った。
「なぁ、志摩センセェ」
「まだ何か知りたいことあるのか、欲張りちゃん」
「欲張りで悪かったな!」
消えゆく西日と深まりゆく藍色が滲む眼鏡のレンズに岬は問いかける。
「早く離れたかった場所になんで戻ってきたんだよ?」
『君も僕と同じだね』
貪欲にも程がある自分の正体がわからずに足掻いていた志摩は高校二年のときに阿久刀川と出会った。
ずっとわからなかった答えを彼は丁寧にわかりやすく教えてくれた。
『淫魔筋。どちらかといえば夜行性で、ヒトとは違う種の血が流れてるんだよ』
自分の正体が判明して少しだけ安堵した。
行き場に迷ってただぼんやりと眺めていた暮れなずむ空。
獰猛な発情を引き摺って徘徊した夜の街。
刺々しい白昼の日差しよりも肌に馴染んだ柔らかな夜気。
大学生活のため遠くへ離れて気づかされた。
遠ざけたかったはずの生まれ育った棲み処を身も心も恋しがっている我が身に。
「帰巣本能でもはたらいたかな」
「……本当はセンセェも好きなんじゃねぇの、妹サンのこと」
さすがに志摩は驚いた。
仏頂面になって自分を覗き込んでいる岬に首を左右に振ってみせた。
「それはない」
志摩センセェに危うい色気。
最初、聞いたときは想像つかなかったけど、今になって思い出した。
ゴールデンウィークの前日、夜の街で見かけたときのセンセェはいつもとどこか違って見えた。
人間に擬態した夜行性の獣みたいだった……。
志摩が暮らす雑居ビルまでなんとなくついていった岬だが。
「弓誓にずっと謝りたかったの」
最上階で双子の兄の帰りを待っていた彼女と担任の肩越しに昨日振りに再会した。
「あのとき、お父さんとお母さんに本当のこと言えなくてごめんなさい、お兄ちゃん」
夜の入りと共に生き生きと呼吸を始めた繁華街の片隅。
二階の古着屋から聞こえてくる重低音の音楽。
その場から岬を退かせるでもなく、生徒をすぐ背後に控えさせたまま、昔と同じ呼び方をした妹と志摩は向かい合った。
「俺はお前のこと一生許さない」
唯一の片割れである彼女の心臓にまで突き刺さるように。
泣き濡れる双眸の端々に燻る兄への未練を粉々にするように。
新しい家族と、両親と、今まで通りの日々を過ごせるように。
唯一の片割れである自分と決別できるように志摩は妹に嘘をついた。
「志摩センセェ、やっぱりうそつきじゃねぇか」
玄関ドアをロックする前に岬は志摩の背中に抱きついた。
「でも、あんな言い方だと逆効果だぞ」
「はい?」
「一生許さないってことはさ、一生忘れないってことだろ」
ダウンに押し当てた片頬に伝わってきた軽い振動。
肌身を包む厚めの服越しだと物足りず、岬は、より力をこめてぎゅうぎゅうしがみついた。
「お前、俺を窒息させるつもり」
目の前で翻った長い髪の残像が視界にこびりついていた志摩は、自分の背に顔を埋めるヤンキー淫魔に問いかける。
「それとも慰めてくれてるの」
岬はまっかっかになって返事ができずにいる。
「一応言っておくけれど、歩道橋でした話は誰にも言うなよ」
「ん」
「阿久刀川だって知らないんだから」
「ん……、……え? は? あの人知んねぇの?」
「知らないよ。だって誰にも言ったことがない、妹に告白された話は」
……ここから先は有料とかほざいて、もったいぶってたクセに。
……肝心なこと知らなかったんじゃねぇか、チクショー。
「阿久刀川のことだから自ずと勘付いてはいるだろうけど。お前が今にも歩道橋から飛び降りそうだったから、応急処置として教えた」
寒くて薄暗い部屋の入り口で。
大学卒業後、異郷の地から生まれ育った街へ戻ってきた淫魔に半熟淫魔は消え入りそうな声でお願いした。
「俺にオイタしろよ、センセェ……」
志摩センセェ、戻ってきてくれてよかった。
俺の学校の先生になってくれてよかった。
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