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『今日は岬の誕生日でしょ』
自分から教えた覚えがない岬は片腕にじゃれつく濡宇朗を見下ろした。
『岬のことならなんでもわかるよ』
やたら黒目がちな双眸と視線を重ねていると、ふとした瞬間、その深淵に吸い込まれそうな錯覚に陥ることがある。
こんな白昼の街角でも夜のど真ん中に一気に引き摺り込まれそうな。
『せっかくの誕生日だし、オレと花火見にいこ』
『……今日は先約があんだよ』
『クソ志摩と?』
『だからその呼び方やめろって』
『じゃあソッチについてく』
『……』
『公開プレイしてもらっても構わないし、あ、せっかくの誕生日だし3Pでお祝いする?』
とんだスキモノ発言に岬は首を左右にブンブン振った。
『でもやっぱり岬と二人で花火がいいな』
岬は断りきれなかった。
夕暮れ、よく利用する歩道橋で、待ち合わせの時間と場所をそう決めて濡宇朗と別れた……。
「なぁ、そのデータ、俺が見たらだめなやつ?」
岬が尋ねれば、規則正しくキーボードを打ち続けていた志摩は「駄目なやつ」と素っ気なく即答した。
一端帰宅し、オーバーサイズでゆったりめのTシャツ、カーゴハーフパンツに着替えてきていた岬は仏頂面になって床に座り込んだ。
窮屈そうに背中を丸めてガラステーブルに両腕を乗せ、食後、ずっと入力作業している向かい側の教師を半開きの吊り目で睨んだ。
目許にかかる前髪の先がちょっとだけ湿っていた。
伏し目がちにパソコン画面に集中している。
キーボード上で紡がれるタイピング音は実に滑らかだった。
つまらない、わけじゃなかった。
放置されているのは歴然だが、黙々とキーボードを叩く志摩を眺めているのは嫌いじゃなかった。
……でも、多分、これって機嫌悪ぃよな。
……こんな風に作業してることは今までもあったけど、さすがに長ぇ。
花火見たらすぐに帰ってくるし。
だけどこの雨だと中止になるんじゃねぇのかな。
濡宇朗、スマホ持ってねぇから、とりあえず歩道橋には行って、それでセンセェんちに来たがったら……どうすっかな……。
カタカタと鳴らされる単調な音色と外の雨音を聞いている内に、岬は、いつの間にか束の間の眠りに引き摺り込まれていた。
「ん……?」
目覚めれば点されていた部屋の明かり。
もぞりと顔を上げ、背中にかけられていた志摩のパーカーにパチパチ瞬きし、外から聞こえてくる雨音にぼんやり耳を傾けて。
「ん!?」
濡宇朗と約束していた時間まで十分を切っていることにぎょっとした。
「一時間も寝てたのか……志摩センセェ、なんで起こしてくんなかったんだよ?」
寝る前と同じ体勢でキーボードを打っていた志摩は、不満げに口を尖らせている岬にチラリと目をやった。
「こんな悪天候で花火が上がるわけない」
「そりゃ、そーだけど」
「さっき公式のSNSを見て確認した、今日は中止だ」
「あ……やっぱ、だよな……」
ゲリラ豪雨とまではいかないが、一定の雨量で長々と降り続いている雨にため息をつき、岬は腰を上げた。
背伸びをし、ストレッチでもするように節々の関節を鳴らしていたら、志摩もソファから立ち上がった。
「中止なのに行くのか」
「あー。濡宇朗、スマホ持ってねぇから緊急の情報に疎いんだよ」
「こんなに雨が降っていたらこどもでも中止だってわかる」
「うーん。アイツって俗世離れしてるっていうか、イマイチ常識にも疎いから。こんな土砂降りでも一発くらいは上がるかも、なんて期待してそうじゃね?」
「奴が非常識なのは嫌でもわかる」
濡宇朗に対してはとことん辛口である志摩に岬は苦笑した。
「アイツのこと、そんな嫌わないでやってくれよ、センセェ」
……過剰に好きになられても困るけどさ……。
「ダッシュで歩道橋まで行ってくる、そんですぐ帰ってくる、帰ってきたらクリームプリン食う」
「……」
「なんかテキトーな傘借りてくな。センセェ、無駄にビニ傘いっぱい持ってんだ、ろ……」
冷房のよく効いた洋室からキッチンへ出ようとした岬はドア口のところで硬直した。
背後から志摩に抱き竦められた。
急なスキンシップに一瞬で熱くなった全身。
頭は回らず、不意討ちのバックハグにひたすら動揺し、押し黙った志摩をぎこちなく仰ぎ見た。
「いきなりどうしたんだよ、志摩センセェ……」
普段は感情の読み取りに苦戦する眼だが、今日は違っていた。
志摩は怒っていた。
感情がささくれ立って、いらついて、乱暴になっていた。
ただただ戸惑っていた岬の唇に折檻にも等しい嗜虐的な口づけを振るった。
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