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第29話
俺がバスタブからノロノロ立ち上がろうとした時、足が滑って転がりそうになり、空を切った手や身体を、静月が掴んで支えてくれた。
「危ないじゃないか……」
「ごめ……」
顔を上げると静月と目が合った。
無表情ではあったが瞳は揺るがず、じっと俺を見ていた。
でも何を考えているのかサッパリわからない。
「ほら、ゆっくり」
静月の落ち着いた声が、頬に息がかかるくらい、必要以上に近い距離で聞こえた。
そして腰に回した手で、俺を自分の元へと引き寄せたので、鼻先が触れそうな距離で見つめ合うことになった。
なん……だよ……。
何か言いたそうだけど何も言わない静月に俺は苛ついた。
きっと、トロいなとか思ってんだろうな……、実際身体中怠くて動きもままならねーんだけど……。
時間がないから言い争いは避けたいだけなのだろう。
こんだけ邪魔者扱いされて気分悪っ……、俺もさっさと家に帰りたいわ。
それから俺は静月が広げたバスタオルにくるまれ、成すがままにゴシゴシ拭き取られた。
そして真新しい下着とアイロンがピシッと掛けられた洗濯済のシャツや制服を、手際よく広げて着せてもらった。
なんかさ……、自分の事後を反省させられる静月の行動だよな……。
着せてくれるだけでもいいか……、俺こんな風に女子に服とか着せてあげないもんな……。
甘い夜の欠片も見当たらない熱の冷めた事後処理……。
まあ、俺らは恋人でもないしな……、身体を洗ってくれただけでもましか……。
……て、思い出した、これお仕置きだったわ……。
「葵、腹減ってる?テーブルの上にクロワッサンあるけど」
早く出て行けと言ってるのに、腹減ってるかだと?
食べる気分じゃないし、しかも食べるとか迷惑だろーが!
それにおまえ、もうコート着たじゃん。
ちっ。
「いい、帰る」
俺は負けないくらいぶっきらぼうに返事を返した。
静月は何か言いた気な怪訝な顔をして俺を見たが、俺は目線を受け止めることなく顔を逸らして入口へと向かった。
もうこんな奴と話もしたくなかった。
廊下には誰も居なくて、エレベーターのボタンを押すと直ぐにドアが開き、中へ入ると後ろから静月も乗り込んで来た。
身体が怠い……、壁に凭れて一階に着くのを待っていると、ドアが開く寸前で静月が一時停止のボタンを押した。
ん……?
そして次の瞬間、俺の襟元を掴むと身体を引き寄せキスをしてきた。
え!
抵抗しようにも気力も力も無く、まして巧妙な静月のテクニックによって俺はあっさり舌の侵入を許して、あろうことか自分の舌を絡める始末で……。
口内中を弄られた後には、思考が完全に停止していた。
「楽しかったよ」
唇を離した時、静月はこの日初めて微笑みながらそう言って、一時停止のボタンを解除すると、開いたドアから先に出て行った。
そう、街で引っかけた相手と、一夜限りの行為を楽しんだ別れの挨拶のように……。
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