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第6話 掟の対価

 風景はどこまでも白かった。いまだ雪は厚く、視界は冬景色そのものだ。それでも鋼のような厳寒は去りつつある。ユトゥは鎌の月を西の空にみつめてそう思った。  砦に戻ると、狭い通路を歩く兵士たちが彼をみたとたん緊張し、敬礼をした。手をあげて礼を返し、ユトゥは一度自室へ戻ると剣を佩く。  明日ユトゥが迷宮へ赴くことは砦に知れ渡っているが、兵士たちの誰ひとりとして、彼が戻らないとは思っていないようだ。以前はこうではなかった。辺境の一兵卒だった男はいまや「英雄」の称号を得て、砦の誇りとなっている。  彼に賛嘆や尊崇の視線を送る部下を疎んじはしないものの、ユトゥ自身は自分が迷宮で何をしているのか、いまだに理解できなかった。支度の部屋から迷宮へ、レシェムに見送られて扉を抜けたあとの記憶は、神殿に戻るとたちどころに薄れてしまう。まるで夢の経験のように、ユトゥにはぼんやりした影しか思い出せない。だが、鎌の月の翌朝迷宮へ入り、満月を過ぎて神殿で目覚めるたび、ユトゥはたしかに強靭になっていた。  最初に迷宮から戻ったあと、鏡に映った自分の顔にはそれまでなかった険しい皺が刻まれ、二週間も経たないあいだに数年齢をとったように感じたものだが、その後はそんなことはない。むしろ迷宮から戻るたびに古い傷の痕が癒え、少年の頃のような尽きない活力がよみがえる。 「迷宮は星のあわい」  支度の部屋でユトゥの剣帯を捧げ持ち、レシェムがつぶやいた。小さな声が「あなたは……」と続いたように思ったが、その唇は震えるようにわずかに動いただけで、閉ざされてしまう。  しかしユトゥは眉をあげ、続きを待った。今日のレシェムはいつもと様子がちがうように感じたが、理由はわからなかった。何度も彼とこうしているからだろうか。レシェムの外見はいつもの通りだ。黒の神官服は襟元まできっちり留められ、白金の髪が垂れかかる。 「どうした?」  ユトゥは服を脱ぐ手をとめて、レシェムから剣帯を取り上げた。 「神官が触る必要のないものだ。俺のような兵隊にまかせておけ」 「あなたはもうただの兵士ではありません」 「俺はただの兵士だ」  ユトゥは片手を振る。胴着姿のまま、正面からレシェムの両肩をそっとつかんだ。 「今日はどうした。口数が多いな」  話せ、とは告げなかった。それでもレシェムの様子から何らかの予感を受けていたのはたしかだ。ユトゥの期待を裏付けるかのようにレシェムの表情はまた動いた。しかしその内実はユトゥにはとらえがたかった。  レシェムは立ち尽くしたまま、静かにいった。 「あなたが迷宮へ行くのはこれが最後になるでしょう」  これは予想外の答えだった。ユトゥはまじまじと神官を見返した。体の奥深くを鋭く刺されたような気がした。 「なぜ? 俺が戻ってこれないと?」  レシェムは首を振る。 「いいえ。あなたは戻ってきます。そして王になるでしょう」 「何を――」  ユトゥはあっけにとられた。王。そんなものは何年もこの国にはいなかった。王国の法にはたしかに王位というものは存在する。しかし長いあいだ空位となっている王の座は、貴族や大商人をはじめとする有力者で占められる都の評議会のお飾りだ。 「いいえ。あなたはもうすぐその資格を得る。あなたが迷宮から戻れば王国にも春が来るのです。迷宮から戻った者を王として、王国は新しい時代を寿ぐでしょう。これは王国の掟。都の神殿にも、議会にも刻まれているはずです」  レシェムの声は淡々として、震えも恐れもなく、嘘とは思えなかった。それでもユトゥは信じなかった。これはきっと、支度の部屋に漂う香が見せた幻影なのだ。レシェムはそんなユトゥの心を感じ取ったようだった。 「あなたは信じておられない」 「レシェム」 「本来なら私もあなたにこんな口をきいてはならないのです」 「……レシェム」  白い顎を指で支えると、レシェムは後悔しているかのように顔をしかめた。この神官はいったい何歳なのだろう、ふとそんなことをユトゥは思った。肌はなめらかで美貌は年齢を感じさせないが、眸にやどる精神に若さはない。老獪なのではなかった。ユトゥはただレシェムの眸に、長い年月がもたらした信念の重みを感じるだけだった。  迷宮から戻れば王になるという話が信じられなくとも、自分が迷宮へ行くのが最後になるという言葉を正しいと感じたのは、そのためだったのか。 「これが最後なら」  ユトゥは唇を近づけてささやいた。 「おまえを啼かせてみたい」 「――ユトゥ」 「おまえの体を縛る帯を解いて、俺に声を聞かせろ」  この神官に心惹かれるのは、美しい彫刻のような顔立ちのためでも、しなやかな白い肌のためでも、滝のように流れる白金の髪のためでもない。美しい女や男なら都にもいる。ユトゥは単なる美しさに心を動かされたことはなかった。ではいったい何が自分を惹きつけるのだろう。この神官に、おのれを手放しているようにみえて、実はその底に硬く秘められた何かを隠しているような、そんな気配を感じるせいだろうか。  何なのかもわからないそれを壊し、内側にある何か――柔らかく脆く繊細な何かを引きずりだし、ひき裂き、噛みつき、蹂躙したい。そんな欲望が自分にあるなどとユトゥは思ってもみなかったが、今まさに感じているのは、そんな激しい何かだ。だがそれをぐっとこらえて、今のユトゥは優しくレシェムに触れる。寝台にレシェムをうつ伏せにして、胸と背中を縛る革帯の留め金をはずし、肌に残る赤い筋を舌でなぞる。  ユトゥの下でレシェムは震え、拒むように首を振るが、首から上の肌は桃色に染まっている。ユトゥは細い体を軽々と裏返し、股間の中心をゆるく揉みしだき、たぶらかすように指を這わせる。レシェムがはっと息をのみ、唇を引き結ぶのも許さない。ユトゥは指で神官の歯をなぞり、唾液をすくう。濡れた指で胸の尖りをつまみ、軽くひねる。 「っん――」 「噛むな」  ユトゥは肌の上でささやき、赤い筋となった革帯の痕に息を吹きかけた。この赤い線は知らない土地の道筋を思わせる。たどっていけば異なる景色がみえるだろう。レシェムは乱暴に扱われるのに慣れている。何度も彼を抱いたユトゥはもうよく知っていた。レシェムは苦痛をなんとも思わないのだ。その先に快楽があってもなくても。  その一方でこの神官は、優しい愛撫に慣れていない。 「……あ……ぁ…」  吐息にまじって漏れた声を聞いたとたん、ユトゥの中に残酷なほどの勝利の感覚がわきあがる。神殿に繋がれたこの鳥をもっと大きく叫ばせ、啼かせたい。 「ぁ……」 「欲しいものをいえ。俺は待つぞ。おまえがその口をひらくまで」  いつのまにかレシェムの眸に涙がたまっている。非難するようにユトゥを睨みつけたとたん、頬を流れた雫がぽたりと敷布に落ちた。

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