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第7話 楔の亀裂
あたたかい息がレシェムの右手を舐め、肘の内側をのぼり、腋をかすめて肩をなぞっていく。
この男の指は、剛毅な外見からは想像もつかない繊細な動きでレシェムを誘惑する。これまで何度屈しそうになったことか。
今夜も屈してはならない――そのはずだ。それなのに泉が決壊するようにレシェムの心は禁じられた方向へ流れだす。今夜が最後だ。ユトゥがこんな風に自分に触れるのは。
「俺は待つぞ」
ユトゥがささやくが、焦らすように細やかに動く指がもたらす感覚のせいか、レシェムには半分しか聞きとれない。自分がここにいるのはおのれの欲望に屈するためではないのに。押さえつけられた腰を這う舌が割れ目を探し、奥をこじあける。首をふって悶えてもユトゥは許さない。舌で濡らされた上、奥へ侵入した指の感触にどういうわけか今夜は堪えきれなかった。自分自身の耳に響いた声は、まるで他人のもののようだ。
「や――あ、ああああ!」
ユトゥのつぶやきが耳朶を噛んだ。
「おまえは鳥のようだ。白い羽根をもつ……もっと啼け」
「だめ……です…」
「だめじゃない」
ユトゥはゆっくりと指を進め、レシェムの快感の中心をえぐってから解放する。だからといって欲望がおさまるわけもなく、むしろ逆だ。手のひらで尻を揉まれるだけではたえられない。物欲しげに腰を揺らしたのは無意識の行動で、レシェムはユトゥの満足げな吐息をきく。
「そうだ」
「ああ、ユトゥ――」
レシェムは喉まで出かかった言葉を飲みこむが、上にいる男は見逃さない。指が前に回り、雫をこぼしつづけているレシェム自身を弄ぶ。あっと思ったときは背中から抱き上げられている。膝に抱えられ、男の怒張を尻に感じたまま指で胸をつねられる。決壊した泉から清水があふれて川になるように、レシェム自身の欲望がわずかに残った自制を押し流し、思わず唇からせつない喘ぎがこぼれた。せがむように腰をゆする自分自身に気づいて、頬がぱっと熱くなる。
「おまえは美しい」
耳をなぶるユトゥの吐息も荒かった。
「欲しいか?」
ください、という声はうわごとのように喉の奥から漏れた。ふたたび敷布にうつぶせにされ、香油の甘い匂いとともに待ち望んだものを受け入れる。猛々しいユトゥの欲望を受け入れても苦痛はなかった。指で探られた場所を打ちこまれた楔の先で擦られ、奥を突かれて、レシェムの解放された喉から叫びがあふれる。
「あ、ユトゥ――ユトゥ――あ―――」
「そうだ……そう……」
真っ白の快楽にのっとられたレシェムをユトゥは思いのままに揺さぶり続ける。薄れる意識のなかでレシェムが最後に聞いたのは男の唸るようなつぶやきだった。
「俺の横にいてくれ。日が昇るまで……」
次の満月を待つあいだに春の暖かい風が吹きはじめた。まるで冬の結界が破れたかのようだった。
樹を怪物のような姿にしていた雪氷がすこしずつ溶けていく。神殿の周囲にも鳥や獣が戻ってきた。最初の新芽が雪を割ってあらわれるのもそれほど遠くないだろう。
満月の翌日、裂け目の扉の前でレシェムはひとり待っていた。侍従や他の神官は下がらせている。何度迷宮から戻っても、扉から出てきたばかりのユトゥが獣のようなふるまいをするのは変わらないからだ。支度をした自分だけが、ユトゥを人の世界へ戻すことができる。
ユトゥの戻りは遅かった。レシェムは待ち続けた。戻らないはずはない。
扉が内側から大きく揺れたのは、月も夜明けの空に薄く消え去っていく時、昼と夜の境目のごく短いひとときである。
まっくろの闇が染み出すように扉の外に顕現し、固まって人のような形となる。神殿の光のなかでも、それは悪しきものの影のように暗く、しかし影ではない固い形を持っていた。
「ユトゥ」
レシェムは名を呼んだ。
「あなたですね?」
そのとき人の形をした影が膨張した。あふれた闇が渦を巻き、天井から床までそそりたち、まっすぐレシェムへ襲いかかる。ねばりのある黒い闇、息もとまるような冷たい狂暴な闇はレシェムの喉を締めつけ、言葉も体の自由も奪い、神殿の石の床に引き倒す。いつもの苦痛――いや、これまでの何倍も、何十倍もの苦痛がレシェムの爪の先から眼の裏側、頭の芯を貫く。
(あなたはユトゥだ)
闇に押さえつけられて声は出ない。できるのは苦痛に耐えながら念じることだけだ。迷宮を訪れた者は、そこに棲む闇を屈服させなければ迷宮を出られない。しかし闇を屈服させられたとしても、闇はその者を変えてしまう。迷宮から出た者を人に戻せるのは、支度の部屋でその者の精を受けた神官だけ。
レシェムだけだ。
ユトゥが戻るのであればどんな苦痛を受けようともかまわなかった。どれだけ四肢を、体躯を引き裂かれようとも、傷は神によって癒される。闇を捨てた神のつぐないとして。
それでも今回の闇は――ユトゥは恐ろしかった。レシェムの眼とこころの一部は、みずからの足先と指が奇妙な角度でこちらを向いているのを他人事のようにみつめている。世界はもう暗くなかった。闇は去り、かわりにあらわれたのは一面の赤、あざやかな血の紅だけだ。
はっと気がつくと、男は血の海のなかで両手と両膝をついている。
顔をあげると眼の前に扉がある。この扉を最後に通ったのはいつだったか。床をついた両手はぬるりとしたものに覆われ、ずらしたとたんに何かの塊が指に触れる。
床に眼をおとすと顔があった。
「レシェム?」
ユトゥは震えながらそのひたいにふれた。白金の髪も唇も血にまみれている。喉にぱっくり開いた大きな穴、胴体からひきちぎられ、ねじれた手足。すべてがユトゥの前にさらされている。神官は目覚めない。ぴくりとも動かない。
「レシェム?」
あわてて指で触れた皮膚にもべたりと血がついてしまう。ほとんど恐慌に陥りながらユトゥは膝立ちになり、周囲を見回した。なんだこれは。これは――俺が――?
「陛下」
背後で誰かの声が聞こえた。ユトゥはふりむいた。純白の神官服を来た男が立っている。その顔には見覚えがあった。都の神殿の神官だった。冬がはじまったころ、ユトゥに迷宮へ行くよう命じた男だった。
「お迎えが参りました」
「……何をいっている」
男は歌うように唱えた。
「一度迷宮から戻る者は勇者である。二度迷宮から戻る者は英雄である。三度迷宮から戻る者は王である。迷宮の闇を従えた者だけが、この王国の王になる。春が来ます。都では皆が待ちかまえております。どうぞ――」
「何をいってる!」
ユトゥはレシェムの顔を抱えようとして、美しい首が胴から外れそうなのを恐れた。
「これは――これは何だ。都の神殿だと? おまえたちは手も汚さず、いったい何をしているんだ。ここで――レシェムが――」
ユトゥの激昂に白い神官服の男は動揺したそぶりも見せなかった。淡々とこう告げただけだ。
「その者はあなたを送りだすため、ここで迎えるために存在します。さあ、体を清めたら、都へ」
「断る。俺は都には戻らない、ここにいる」
自分の剣はどこだ。血まみれのままユトゥは立ち上がり、ふいに人々に取り囲まれているのに気づいた。黒服の神官と侍従がひざまずき、ばらばらになったレシェムの亡骸を拾っている。血に濡れた黒が神殿の明かりの下でてらてらと光った。
「王よ」
見覚えのある侍従がいう。
「どうぞ、都へお戻りを」
「俺の剣は」
「あなたの剣は闇に捧げられました。この者のように」
ちがう、といいたかった。しかしユトゥの唇は言葉を失い、出たのは咆哮のような叫びだけだった。
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