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第8話 昼と夜

 樹々の梢が織りなす網目の先端で、新芽が鮮やかな色を輝かせている。色合いは樹の種類によってさまざまなのだろう、淡い黄色、黄緑、赤。そしてあれは花だろうか、小さな白と淡い桃色。  年老いた幹から若い枝が伸びひろがり、太陽の光がそのうえに降りそそぐ。光であふれた世界に吹く暖かい風の中には土と緑、樹皮の香りが混ざっている。  遠くで音楽が鳴り響いていた。これは鳥のさえずり、あれは虫の羽音だ。鳴きかわす鳥たちが歌うのは求愛の歌だろうか。あふれだした生命が祝祭のように空と地を覆い、膨張している。  レシェムはまばたきをした。みずからの体内にも同じ生命の力がどくどくと脈打っている。 「レシェム様」  くぐもった声が聞こえ、横たわったまま目線を動かすと、昔から見慣れた侍従の顔がある。レシェムを見下ろしているのだ。しかし何かがちがう。侍従の髪はこんなに灰色だっただろうか。ひたいに刻まれた険しい皺には覚えがない。口元は逆に少したるんでいる。 「どうした、そんな顔をして」  レシェムは唇をひらいた。自分の声が奇妙に耳障りだった。糊の効きすぎた布地のように固くこわばっている。 「そんな顔とは」  侍従はつぶやき、次にレシェムを心底驚かせたことに、眸からぽたぽたと雫をこぼした。 「なぜ泣く?」 「もちろん、嬉しいからです。あなた様が蘇生されたのが」 「私は――」 「新王が迷宮から帰還された日から、十二の月がめぐりました」侍従の喉がごくりと動き、別の言葉でいいなおした。「あなた様が扉の前で新王を迎えられてから、十二の月が」 「では――一年?」  レシェムは体を起こそうとして、手足が思うとおりに動かないのにはじめて気がついた。 「私はあの時、ユトゥが迷宮から持ち帰った闇に引き裂かれた」 「今度こそ目覚めないのかと思いました」侍従は涙を隠そうともせず、さめざめと泣いている。「冬が訪れる前に神は肉体を再生されたが、あなた様はずっと眠ったままで……」 「冬」レシェムはつぶやき、はっとする。 「冬――砦はどうなった? 迷宮は……」  もがきながら起き上がろうとしたレシェムを侍従はなだめるように制し、ついで袖で頬の涙をぬぐった。 「ご心配はいりませぬ。今の王国には王がおりますゆえ」 「では、ユトゥは」 「王陛下は都におられます。迷宮は眠りました。悪しきものはあらわれておりませぬ」 「そうか」レシェムは安堵の息をついた。「そうか。|神殿《私たち》は正しかったのだな」 「そのためにあなた様を犠牲にした」 「何をいう。私は目覚めたぞ」 「十二の月がめぐりましたが」侍従はうなだれた。「私も齢をとりました。あなた様は何ひとつ変わったところがないというのに」  レシェムが寝台を離れて自在に歩けるようになったのは、それから満月が二度訪れたあとのことだった。  長らく空位であった座に新王を迎えたのち、王国は繁栄していた。雨も風も日の光も申し分なく、穀物はたわわに実った。都の神殿で戴冠した新王はただの飾りではなかった。これまで行政を担っていた議会や軍を強力に指導し、長らく小競り合いの続いていた辺境の蛮族と和解し、荒れた道や貯水池や川を整備させた。流行り病も起きず、都は商人と職人で賑わい、いくつもの村につながる辻には定期的に市が立った。そして冬になっても、王国の森に悪しきものが徘徊することはなかった。  王は満月のたびに都の神殿を訪れ、祈りを捧げているという。夏のあいだ砦に派遣された兵士や村人の噂話から、レシェムはユトゥが民に慕われているのを知った。  王国に王が立った今、迷宮は静寂のなかで眠っている。王は森の神殿を訪れることはないだろう。まして迷宮を訪れるなど、二度とない。都の神殿は王を光り輝く存在に聖別する。レシェムのいるここ、森の神殿が夜の場所ならば、都の神殿は昼の場所である。ふたつの聖域はけっして相いれない。  自分が夜の場所で蘇生した意味をレシェムは理解していた。迷宮を訪れた者は闇の波動を深く身にまとって帰還する。その者を慰撫し出迎える神官は、何度も波動を受けとめるうちに、迷宮を訪れた者よりも深く闇に染まる。そしていつしか、迷宮そのものに近い存在へと変異する。  迷宮は星のあわい――闇に染められた神官は、凍てついた星同様に歳月を経ても変わらぬ外見をもち、失った肉体ですら時の彼方から呼び戻されるのだった。それ自体は闇の仕業ではなく、王国に王を与えるために神が仕組んだこと、神の業に他ならない。  それでも迷宮は闇に穢れた場所だった。森の神殿の神官――自分もまた深く闇に穢れてしまっている。  都の神殿で昼の光に浄められた王がここに現れるなど、ありえなかった。迷宮は眠り、もはや誰も訪れる必要がない。森の神殿だけがひそやかに裂け目の扉を見守り続ける。  王となったユトゥはすべてを知ったのだろうか?  愚問だとレシェムは首を振った。知っていようと知らなかろうと、たいしたちがいはなかった。  私は二度とあなたに会わないだろう。

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