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第9話 孤独の壁

 森の神殿では平穏な日々が続いている。  迷宮は静かなまま、変化はなかった。寒気が厳しく迫り、雪が深くなっても、兵士たちがかざすランタンの影に悪しきものの姿はあらわれなかった。冬の安寧は夏にも影響したのか、畑の豊作と森の恵みを得て近隣の村は冬の蓄えを増やした。  幾度かの夏と冬を過ぎると、砦の兵士は減った。もはや冬になっても、夜の森で悪しきものを斬る必要はない。一年を通して神殿を警護するだけでよくなれば、冬の砦へ派遣されるという言葉の意味も変わる。砦に閉じこめられていない兵士たちに神官が奉仕する必要もない。  王国の繁栄は続いている。  神殿を囲む森から出ることのないレシェムにも王の噂は聞こえていた。一兵卒から王となったユトゥは砦の兵士にとっては奇跡の英雄である。王が迷宮を討伐し、森の神殿から都へ上ったいきさつは物語として伝えられ、都では芝居になり、何度も上演されているという。劇には「森の神官」の役も登場するらしい。出入りの商人から聞いたと侍従はいったが、レシェムは苦笑するしかなかった。いったいその神官とやらは舞台でどんな口上を喋るのか。  また幾度かの夏と冬が過ぎても、レシェムの外見は変わらぬままだった。ある年、長年レシェムに仕えた侍従が逝った。いまでは砦にいる兵士は顔なじみばかりで、近隣の村出身の者がほとんどだ。そんな兵士や村人の中には、レシェムを神の眷属と思っている者すらいる。  大きな間違いだった。レシェムはむしろ、神に置き去りにされた迷宮の一部なのだ。  歳月がたつにつれて自分の周囲が壁で囲まれていくようにレシェムは感じていた。壁は高く長くのび、レシェムを幾重にも取り囲み、迷路のような通路となった。人々からレシェムは遠く安全に隔てられた。出口がどこにあるのかも見えず、そもそも出口を探したいとも思わない。  もしかしたら――とレシェムは思う。迷宮はこのようにして生まれたのだろうか。神に置いていかれた闇の孤独を取り囲むように。  神殿で祈りを捧げながら、レシェムはときたま都の王のことを考えた。王――ユトゥはどうなのだろう。  繁栄の続く王国では、何年も大きな異変は起きなかった。もっとも多少の噂なら神殿の壁の奥深くにこもったレシェムにも聞こえてくる。王が妻を娶らずにいるとか、森の彼方、沙漠や山脈の向こうのとある国が、軍隊で周囲の国々を制圧し、膨張しつづけている、といった話だ。  やがて都の神殿から使者が訪れる回数が減った。信心深い村人は昔と変わらぬ尊敬を神殿に捧げたが、森の神殿はあまり手入れもされなくなり、仕える神官も従者も減った。冬の砦はごく一部しか使われなくなり、空き部屋はゆっくりと朽ちていく。都から派遣される数少ない兵士たちには粗暴な者が目立つようになった。支度の部屋から裂け目の扉に続く回廊は長いあいだ閉ざされている。  レシェムは早朝や夕暮れどきに神殿を離れ、森をさまようことが多くなった。理由は自分でも定かではない。迷宮の闇が森にあらわれていないか、おのれの眼で確かめたかったのかもしれない。  また冬が訪れる。  レシェムは針葉樹の朽ち葉で厚く覆われた地面を歩く。木立に遮られ、日暮れの近い森は薄暗く、枝のあいだから差しこむ光も弱かった。荷馬車の入れない森の中には人も動物も使う細い道があちこちに伸びていて、慣れた者にはよく見える。森の生き物は冬支度の最中だった。食料を土に埋め、毛皮の下に脂肪を蓄える。村人が薪を集めているのか、ときおり遠くで木を刈る音が響いて、そのたびに小鳥が枝から飛び立った。虫の羽音が止まって、また鳴りはじめる。  その時いつもの森の音楽にふたつの野太い声がまざり、レシェムはその場で足をとめた。 「神殿はこっちだろう。おい、戻ろうぜ。どうせ森を出たところでチンケな村があるだけだ」 「ったく、しけてやがる」 「何いってんだ。わざわざ田舎へ来たがったのはおまえだろうが。神殿警備なら余分な手当が出るから借金を返すってさ。だいたいおまえが余計な騒ぎを起こさなければこんな――」 「何が余計な騒ぎだ。その言葉そっくりおまえに」  森を乱す声も突然止まった。髭面の兵士がふたり、レシェムの進む先に立っている。どちらも冬支度なしの軽装で、靴や胴着の着方も粗雑だ。レシェムを見て同時に足をとめたが、ひとりはぽかんと口をあけ、もうひとりはハッとしたように隣の男をつついた。 「みろよ、おい――」 「神官だろう、白金の髪――噂に聞いた……やべえ、見るのはじめてだ。噂以上の…」  レシェムはまっすぐ歩き、兵士たちの前に立った。 「ふたりとも、砦の者ですね?」 「そうだが?」 「隊長からこの森での作法を教わっているでしょう。大声を出してよい場所ではない」  兵士のひとりはひるんだようだが、もうひとりは違った。 「俺たちはあんたに命令される立場じゃないんだ、神官殿」  わざとらしいほどの大声でいう。髭面の口元に下卑た笑いが浮かんでいる。 「にしてもあんた、美人だな。いったい神殿で何をしてるんだ? 都にいれば野郎どもから引く手あまただろうに」  男の手のひらでチカッと何かが光を反射した。つぎの瞬間レシェムは男に詰め寄られ、土の上に倒されていた。喉にチクリと鋭いものがあたる。男はレシェムにのしかかり、押さえつけたまま小刀を握る手をレシェムにはっきりと見せつけた。 「森ではお静かに、か?」 「おい、おまえ……」  連れの男が呆れたような声を出したが、レシェムの上にいる男はそちらを見もせずに吐き捨てる。 「ぼうっとして見てんじゃねえ。こんな森、誰も来やしない。冬のあいだここにいなきゃならないってんならこいつでちょうどいい。神官なんていったところで、俺たち同様のごくつぶしだ。それに見ろ、都でもめったにお目にかかれない上玉だぜ?」  布が裂ける音が響く。レシェムは両手首を縛られ、髪を掴んでひきずり起こされた。男は胴着の前をあけ、半勃ちになった一物をむきだしにする。 「しゃぶれ、きれいな神官さん」  首のうしろに鋭いものがあたる。ためらう隙はみじんもなく喉に陽物を押しこまれる。何年も触れることのなかった男の肌と汗の匂いがレシェムの体の記憶を呼び起こした。神殿で兵士を慰撫していたときと同様に舌と唇が動きはじめる。男は腰を揺らし、満足げな唸りをあげた。 「なんだ。慣れてるな……」  いきなり唇が解放されると同時にレシェムはまた地面に引き倒された。ナイフが光ったと思うと、さっき裂かれたところからさらに、胸から脇腹にかけて神官服を切り開かれる。胴を乱暴に掴まれ、背中からかかえられた。唾で濡れた指のあとに男の陽物が押し入ってくる。 「あ、あ―――い―――」  貫かれる痛みに悲鳴が漏れた。しかしレシェムの肉体は過去に交わった兵士たちを思い出していた。勝手に諾々と受け入れ、男の体になじんでいく。のしかかる男の声はぼんやりとしか聞こえない。 「おまえ、上の口をやれ。すごくいい」 「おまえな……」 「かまうもんか。役得だ。じゅうぶん……」男はふうっと息をついた。「こいつも悦んでる。これじゃ神にも報告できないだろうよ――は、あ」  その時だった。  地面が激しく鳴動した。  レシェムの中にいた男が吹き飛ぶように消え去った。地面に投げ出されたレシェムの視界は黒い影に覆われた。地から染み出した漆黒の闇。強い波動がレシェムの体内をめぐる。梢で何かが揺れていた。かつて人だったもの。さっきまでレシェムにのしかかっていた兵士の一部だ。  闇。迷宮が目覚めたのか。私は―― 「レシェム?」  小石が散る音が小さく響いた。足音だ。レシェムは身動きできないまま、懐かしい声に呼ばれたように思った。迷宮が幻の声を聴かせているのだろう。私があなたに会うことは二度とないのだから。まぶたを閉じたつもりもないのに視界が暗くなる。  体はなめらかで温かいものに包まれている。何かが優しく自分の顔をなぞっている。馴染んだ香りとぬくもりに安堵してレシェムは眼をあけた。何ひとつまとわずに浴槽の中にいて、大きな手が自分の背中を支えている。その顔を見上げたとたん、息が止まりそうになる。 「――王……陛下」 「おまえは誰だ」  刺繍の施された豪奢な胴着が濡れている。ユトゥはかまわずにレシェムの顎をつかんでいる。手つきはいたわりに満ちていたが、視線は鋭かった。睨みつける眸が暗い疑念に揺れている。レシェムは腕をあげ、ユトゥの手をそっと外す。 「あなたはここにいらしてはなりません」  その瞬間、ユトゥの眸が炎のように燃えた。 「それはこっちのいいたいことだ。俺はあのときレシェムをこの手で引き裂いた。だったらおまえは……おまえは何だ」 

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