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第10話 誓約の時

 ユトゥは混乱していた。神殿を囲む森に足を踏み入れたのは最後に迷宮を出たあの日以来だった。思いがけない経緯で王となって最初の数年、ユトゥは事あるごとにこの神殿を訪れようと考えたが、都の神殿はよい顔をしなかった。どの神殿で捧げようと祈りは祈りである、と神官はユトゥを諭した。悪しきものと接する森の神殿は聖と穢れの境界線上にある。王は境界から生まれるが、二度赴く場所ではない。  治世の月日は夢のように流れ去った。王国は栄え、王として様々な物事を成し遂げた。人々はユトゥを崇め、讃えた。周囲に望まれて唯一為せなかったのは、妻を娶って子をなすことだけだ。  そしてユトゥが老境にさしかかったいま、王国は後継者をめぐって揺れている。ふたたび王を空位とするのを人々は望まなかったが、驚くべきことに多くの人はユトゥが迷宮の試練を経たことを忘れていた。かつては歌にもうたわれたというのに。  森の神殿を訪れようと決意したのはそのためだった。ユトゥは供も連れず、顔を隠して道をたどった。森は記憶にあるままの静けさだった。そこであの悲鳴を聞いたのだ。  自分がこの手で死なせたはずの男の顔を認めたとき、すでに息絶えている兵士たちなどユトゥの視界には入らなくなった。息の残った美しい男を抱き上げて神殿へ運んだのはいいが、内部はひと気も感じられず、昔は艶やかに磨かれていた石の壁の隅には蜘蛛が巣をかけている。床や調度からはユトゥが歩を進めるだけで埃が舞い上がった。支度の部屋と呼ばれていた場所は清潔だったが、あの強い香は焚かれていない。  王とはいっても、ユトゥは都の神殿が森のなかにあるこの神殿をどのように遇しているのか知ろうとしなかった。自らの手で失ったものを思い出したくないあまり、わざと関心をそらしていたのかもしれない。冬の砦の必要性が薄れたのを理由に、兵士の派遣を最小限に絞れと命じたのはユトゥだった。 「おまえはレシェムなのか、亡霊なのか。それともあの闇のものなのか」  浴槽で傷口を洗い、敷布にくるんで寝台へ運びながらユトゥはそっとつぶやく。血を流す肉体は亡霊とは思えない。  ユトゥの腕の中で美しい顔が儚げに笑った。かつてレシェムをこの部屋で抱いたときにはついぞみかけなかった微笑みだ。あれから長い年月が過ぎたのに、白金の髪も美貌もユトゥの記憶にある像と何ひとつ変わらない。 「私はレシェム」  その瞬間、ユトゥは驚愕に眼を瞬いた。寝台に横たえた細い体から、襲われたときについた擦り傷や打ち身の跡が消えていく。 「どうなっている? いったい……」 「あなたも変わっていませんよ。ユトゥ」  はっとしてユトゥはおのれの手をみつめる。その皮膚からは王として過ごした長い歳月が消えていた。手の甲に斜めに走る傷も生々しく、年月のあいだに薄れた傷跡ではなくなっている。体も軽く、全身に久しく感じなかった力がみなぎる。まるで一兵士として剣を振っていたころのように。 「これはおまえが見せている幻か? おまえも幻なのか?」  レシェムは沈黙し、美しい顔からは表情が消えた。ユトゥは神官の肩先から肩甲骨を撫でおろし、皮膚の下の骨の感触や透ける血潮をたどる。背筋が寒くなる思考が浮かぶ。本当はここは完全な廃墟で、自分は朽ちた骨を抱いているのかもしれない。迷宮の扉の向こうの闇がこれまでになかったやり方で自分を誘惑しているのかもしれない。  そう思いこもうとしてもレシェムの姿はそのままだ。指にからむ髪の感触、唇のふくらみ、すべてがユトゥを誘い、長年忘れていた欲求が体内でよみがえる。この神官を忘れたことは一度もない。 「私はあなたが迷宮から持ち帰った闇の波動を受けとめる役目です。闇は朽ちることなく永遠の時を迷宮で過ごします。私はあなたと交わるうちにすっかり闇に穢れてしまった」 「レシェム」 「王は光に属する者。穢れたものに触れてはなりません」 「だからおまえは蘇ったのか。何度俺が傷つけても――血を流させても」 「それこそが神の業なのです。あなたが私に触れてはならないのも、神の定められた――」 「馬鹿な」  ユトゥは最後までいわせなかった。衝動的な口づけは噛みつくような勢いで、寝台に落とされたレシェムの手が行き場を探してユトゥの胴着を掴む。舌をからめて吸う神官の息は甘く、ユトゥの全身を昂らせる。一度解放したあとも、ユトゥの舌は零れる唾液を舐め、レシェムのひたい、まなじり、耳朶をたどった。いつまでもこの体を抱きしめていたかった。 「レシェム様! 大変です、迷宮が――」  いきなりばたんと扉がひらき、若々しい声が響いてくる。従者らしき少年が駆けこんでくるとぎょっとしたようにその場で硬直した。 「迷宮がどうした」  ユトゥはレシェムを抱きしめたまま少年にたずねた。相手は眼をぱちくりさせ、ユトゥが何者かを必死で思い出そうとしているようだ。そうだろう、とユトゥは思う。この年頃の子供が知っている「王」は、今の自分の倍以上年をとっているのだ。 「迷宮が目覚めた――と、いうことです。森に影が現われて――唸り声も」 「落ちつきなさい」  腕の中でレシェムがもがいたが、ユトゥはかまわずにいった。 「迷宮へ赴くのは王の役目だ。砦と神殿にいる者に、王はもう神殿に到着していると伝えなさい。安心するようにと」 「ユトゥ?」  レシェムが焦った声をあげたが、ユトゥは重々しく少年にうなずきかえした。王の権威に撃たれたように少年は部屋を飛び出していく。 「迷宮が目覚めた、か。たしかに感じる」 「何をです?」  レシェムはユトゥの腕をほどく。正面からみつめてくる眸をユトゥも見つめ返した。 「あれは俺を呼んでいる。迷宮は星のあわい、と昔おまえはいっていた」  どうして忘れていたのだろうか。迷宮の中での経験はこちら側に戻ったとたん夜の夢のように消えうせてしまうものと思っていた。そんなことはない。あそこは冷たく寂しい場所だった。ユトゥは鮮明に思い出す。 「闇にも慰めが必要だ。俺は行くが」 「待ってください!」  レシェムが鋭く声をあげた。慌てたせいか、先程の口づけのせいか、顔が上気して薄紅色に変わっている。 「迷宮へ入られるなら支度をしてさしあげないと」  ユトゥは首をふり、レシェムの両肩をつかんだ。 「その必要はない」 「なぜです? 私たち神官は」 「おまえは俺と共に行く」  レシェムは雷に打たれでもしたかのように、驚愕の表情を浮かべた。 「ユトゥ……なんと」 「闇のなか、星のあわい――どこにでもだ。ここで俺を待つな。おまえはずっと俺の横にいる。いまこのときからだ。約束しろ」  神殿の外には強い風が吹きはじめたようだ。冬のはじまりの風だった。真正面から神官の、いや、愛しい者の眸をみつめたまま、ユトゥは返答を待った。一瞬のようにも永遠のようにも感じられる時間のあと、しなやかな腕がユトゥの背中に回される。答えとなる言葉のかわりに、王はレシェムが差し出す口づけを受け取った。

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