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第6話

 初めて発情期がきた時のことを、ハナはよく覚えている。  ハナの両親はともにアルファで、兄の明もアルファだった。遺伝確率を計算すれば、当然、ハナもアルファだと、周囲を含め、誰もが羨望の眼差しを向けるほどに、幼い頃は自然と確信していた。  だからバース検査でオメガの判定が出た時も、何かの間違いでは、という雰囲気だった。  明とハナは、ハナのバース性がはっきりするまでは、とても仲の良い兄弟だった。  明にはピアノの才能があり、よく二人で歌いながら踊っていたことをハナは覚えている。  その日、ハナは家にいて、当時流行していたアイドルのポップソングを覚えて、踊りながら歌っていた。明がピアノを弾いていて、サビの一番高いキーを出した瞬間。  ──膝から崩れ落ちるように、それはきた。  幸い、明がすぐに気がついて、念のためにと支給されていた抑制剤を打ってくれたため、事なきを得たが、はからずも明の匂いに発情してしまったことは、ハナのトラウマになった。  程なく、ハナは中学校に通えなくなり、自宅学習を進めるようになる。明もハナが発情した時のことを覚えているのか、贖罪からか、より細かにハナの様子を気にかけてくれるようになった。  しかし、それからしばらくして、明は大学院への進学と同時に、一人暮らしをはじめた。一度、明のフェロモンに反応してしまった以上、一つ屋根の下にいるのは、明にとってもハナにとっても、リスクだったからだ。  明という蜘蛛の糸を一次的に失ったハナは、以来、引っ込み思案で暗い青春を送ることになる。  高校は通信制を選び、ハナは家族以外の誰とも逢わず、ほとんどの時間を家に閉じこもるようにして、浪費していった。  兄の明は院を出ると、父が取締役を務める企業の関連会社に就職し、同時にひとつ後輩の牧野という男を、ハナの家庭教師として、推薦してきた。  牧野は明に言わせると、「ベータにしては優秀」とのことだった。名前のとおり、牧場で草を食むような鷹揚なところを明に気に入られたようだった。明は、突然現れたベータの存在に戸惑うハナに、「大丈夫。牧野はお前の味方だ」と言って笑った。  以来、発情期以外の安全な日に、牧野には週二回、家庭教師にきてもらうことが決まった。  ハナの話し相手にもなってくれる牧野の、おっとりした雰囲気に、ハナは次第に打ち解けるようになっていく。見た目はどこにでもいそうな地味な青年なのだが、ハナに無理を強いたり、必要以上に興味を持って質問してきたりしない、安定感があった。  そんなある日のことだった。ハナの様子を牧野から伝え聞いていた明は、趣味で所有しているライブハウス兼ダンススタジオ「ピアンタ」を見学してみないか、とハナに持ちかけた。  怯えて乗り気でなかったハナを、明は牧野と一緒なら、と条件を付け、ちょうど立ち上げに関わっていた男装女性地下アイドルグループ「フィオーレ」の女性アルファたちと引き合わせた。  今までの地下アイドルとは明らかに一線を画した、新しい風のような彼女たち。  男性ファンの多くを虜にする、嵐のようなダンスと激しく力強い歌声に、ハナは一瞬で魅了されてしまった。  そこで、一度見ただけで、全員の立ち位置を覚えて踊れる、というハナの特技を明が明かすと、見てみたい、という話になり、デビュー前の「フィオーレ」が通して歌い、踊った曲を、ハナはおずおずと、やがて生き生きと踊りはじめたのだった。  曲が終わった頃には、何もかもが違って見えた。  楽しい。  心を空っぽにして踊るのが、こんなに楽しいことだったなんて、忘れていた。  それから、ハナは「フィオーレ」のメンバーの誰かが練習で欠ける時、時々、呼ばれることになり、彼女らと一緒にレッスンを受け、覚えた振り付けを「フィオーレ」のメンバーに伝える、ダンスアシスタントのような役割りをするようになっていく。  ハナがそのことを牧野に話すと、両手を握りしめて羨ましがられた。「フィオーレ」のバックアップメンバーになれたことを、誰よりも喜んでくれたのは、牧野だった。  牧野はハナと一緒に「フィオーレ」を見学してからというもの、いつの間にか、彼女たちの熱烈なファンになっていた。 「誰推し?」  という話から、 「箱推しですけど、あえて挙げるならフィンさんです」  という話ができるようになったハナは、もっと「フィオーレ」を知りたい、関わりたい、と思うようになっていった。  大学に進学した今年に入り、兄の明には「フィオーレ」専属のバックアップメンバーとして登録し、その気があるなら給料を支払うと言われるまでになっていた。  大好きな「フィオーレ」に関われる。  牧野の好きな「フィオーレ」を助けられる。  ハナは幸せだった。  好きなダンスを踊れて、歌を歌えて、その上、給料が出るなんて、夢のようだと思っていた。

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