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第24話
「遅い」
「すみません……」
その週の日曜日、ハナは行きたくないと思いながら、テラを待たせている横浜の水族館へ足を向けた。
先日の気まずい雰囲気を引きずったらどうしようかと思っていたが、テラは至って事務的な態度で、少し遅刻して小さくなっているハナを、ちょっと叱っただけだった。
テラは休日らしく、デニムに麻素材のジャケットを羽織っていた。ハナは「フィオーレ」のバックアップメンバーだとバレないように、念のために一応、眼鏡を掛け、肩まである髪をほどいていた。
最初は、ほとんど接点のないテラに、どう対応すればいいのか迷っていたハナだったが、館内をぶらついて食事をするうちに、次第にテラの前でも打ち解けていいのだと思うようになった。
食事を済ませて再び館内を歩くと、大きな水槽の前を通った。テラは、時々、何か良いと思うアングルを見つけては、スマートフォンのカメラで撮影していた。衣装のインスピレーションになるのだと、不思議がる視線を投げたハナに向けて、恥ずかしそうに弁解する姿が、少し意外だった。
何も言わずにハナを連れ回すテラが、心なしか楽しいんでいるようにも見え、ハナはそのことに密かに救われていた。あんな酷いことをして別れたことを、後悔していたが、テラが触れないのなら、自分も一旦、棚に上げておこう、と思うことにした。
今は、テラとの時間を楽しみたい。
「うわ、マグロの群れだ……! おいしそう」
ハナが呟くと、テラは呆れた顔をした。
「水族館にきて、マグロを「おいしそう」と表現する奴には、初めて逢った」
「だってマグロってトロだし……。あ、トンネルですね」
緩やかな人の流れに半ば身を任せるようにして、トンネル型の水槽エリアへ入ると、テラが窮屈そうに身を屈めた。
「天井が低いな」
「大丈夫ですか?」
「問題はない」
「大は小を兼ねるって、嘘ですよね」
むすっとしたまま、中腰でハナの隣りを歩きづらそうにするテラを見て、可笑しくなってしまう。膝を折り、腰を曲げると、テラのような美形も台無しだった。
トンネルを抜け、今度はフロアの中央にある、円柱型の水槽の前で立ち止まる。水の中で、マンボウが物憂げに泳いでいた。
「マンボウって、寂しくて死ぬって聞いたけど、嘘なのかな……」
「寂しくて死ぬのはウサギだろう」
「そうでしたっけ?」
「小さい頃に、そう教わった記憶がある」
そう言ったテラをハナが仰ぐと、青い眸がマンボウの体表を滑るように注がれていた。
「そういえば、テラは、どこで育ったんですか?」
西洋人然とした長い手足を持つテラが、何不自由なく日本語を操るさまを見てきたハナは、ずっと不思議に思っていたことを尋ねた。
するとテラは、少し黙った後で、静かな声で、秘密を告白するように話しはじめた。
「──生まれはイタリアだ。私はイギリス人のアルファの父と、日本とイタリアの混血のオメガの母との間に生まれた。幼い頃はイタリア北部に住んでいて、日本語は主に母から学んだ」
「へえ」
テラのような何不自由ないアルファが、オメガから生まれてくるのだという事実に、ハナはとても不思議な印象を覚えた。アルファとオメガのつがいの場合、四分の一の確率で、オメガが生まれてくると言われている。テラもまた、生まれるまでは、オメガかもしれないと考えられていたのだろうか。
「母は日本をとても愛していた。当時、父には、別にアルファの正妻がいたから、母はイギリスの土を踏むことはなかった。女手ひとつで育ててもらい、十二歳の冬に彼女が死んで、それから私は父に引き取られた。その翌年の秋にイギリスの寄宿学校へ入り、十七歳まで学んで、飛び級をしてロンドンの大学に入った。きみの兄上と知り合ったのは、その頃だ」
「そうだったんですね……」
ハナが相槌を打つと、テラはマンボウに視線を向けたまま、続けた。
「明は、日本人のアルファにしては、型破りなところがあった。私は彼のツテを使って、大学卒業後に白井園子服飾学園に二年、彼女のアトリエに二年、その後、院に入り直して、あっという間に二年。卒業後、父の事業を継いで、一年経って、明に誘われて、日本へきた」
そこでテラは言葉を切ると、皮肉げな笑みを浮かべた。
「順風満帆に見えるだろう?」
「……」
ハナは答えることができなかった。テラが事実だけを淡々と述べるのは、感情的な領域から、あえて自分自身を締め出しているせいかもしれないと思ったからだ。
ハナに、ハナなりの苦悩があったように、テラにもテラなりの苦闘があったのではないか、アルファにも、アルファにしかわからない哀しみがあるのかもしれない、とハナは感じた。
「……魚って、ある意味幸せですよね。自分の存在を疑ったりしなくて、一心にただ泳いで、天寿を全うする」
ハナが言うと、テラはマンボウから視線を外した。見られていることに何だか気恥ずかしさを感じながら、ハナは静かにマンボウからテラへと視線を移した。
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