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第30話

 スタジオ「ピアンタ」へ向かうために、ホームに入ってきた電車に乗り込むと、一般人の視線を痛いほど感じた。  ハナひとりならそれほど目立たなかったが、規格外の美形の出現に、車内の空気が変わるのがわかった。  兄の明が、テラは引きこもり予備軍の問題児だと零していたが、確かに、こんな風に遠巻きに視線をチラチラ送られる生活が続いたら、疲れて引きこもりたくもなるだろう、と思った。  今までアルファの生活なんて、想像もしなかったハナだったが、テラはこういう日常を送っているのか、と思うと、少し同情したくなった。 「あの、この間は水族館に連れてっていただいて、ありがとうございました」  ハナは沈んだ気持ちをどう持ち上げたらいいのかわからないうちに、先日のお礼を言っていないことに気づいて、頭を下げた。  テラは車窓からずっと外を眺めていたが、ハナの声を聞くと、パッと顔を上げた。 「ああ、いや、そうだな……、きみが、楽しかったのなら、良かった」  どこか狼狽した口調で、テラが歯切れの悪い返事をするのを見て、ハナは触れない方がいい話題だっただろうか、と訝しんだ。 「……はい。楽しかったです」  あの日、水族館で、テラとの距離が縮まったと感じたのは、一瞬生じただけの夢だったのかもしれない。でも、テラがハナのことを気にかけてきてくれたことは、大事にしたかった。アルファとオメガだから、距離を取られているのだしても、それはハナの側の事情で、テラには関係のないことだった。  列車が急に減速し、よろめいたハナをテラの腕が支えた。ハナが接触を詫びて体勢を立て直すと、お腹が空いてきて、ぐーと腹の虫が鳴った。 「す、すみません、変な音させて……」 「いや」  驚く様子もなく、テラはすぐにハナから手を離した。いつもなら、小さくなってしまうところだが、ハナには全てが遠いところで起こっていることのような気がした。  左に緩やかなカーブを描いて、また列車が大きく揺れたと思ったら、ハナが踏ん張る前に、また腹が鳴った。  さすがにテラがハナの方に視線をやったので、恥ずかしくなったハナは俯いた。 「すみません、煩くて……」  せめて今ぐらいは放っておいてほしいと思うのに、身体はいつものリズムを刻む。こんなに何もかもが、ちぐはぐに遠く感じられるのに、間近にいるテラの漏れてくるフェロモンに反応しそうな自分に、ハナは言い知れない哀しみを覚えた。 「昼は?」  ハナの様子が少しおかしいことに気づいたのか、テラが遠慮がちに尋ねた。 「ちょっと食欲がなくて……」 「食べていないのか?」 「はい……。ちょっと忘れちゃいました」  笑って誤魔化したつもりだったが、上手くできなかった。笑顔をつくると、痛みを感じる。身体のどこにも不調はない。心が痛むのだ、とハナは気づいた。  テラは心配そうに、ハナの様子をチラチラと見ていたが、それ以上は何も尋ねようとしなかった。  目的の駅の改札を出て、少し歩いたところにある「ピアンタ」へ向かう。  しかし、ダンススタジオの裏口が見えてくると、テラが急に立ち止まった。 「……駄目だ」 「え?」  不審に思ったハナがテラを仰ぎ見た瞬間、テラが、ハナの手首を、いきなりガシッと掴んだ。 「きなさい」 「えっ……? ちょっ……!」  ハナを連れたテラは踵を返すと、手首をぐいぐい引きながら、往来を進行方向とは逆に歩き出した。そのまま、車道を斜め横断すると、「ピアンタ」のはす向かいにあるコーヒーチェーン店のドアを開ける。 「テラ……っ?」  いきなり登場した規格外の美形に驚いたスタッフや客を尻目に、テラは店の奥へずかずかと歩いてゆくと、一番奥の空いたソファ席に、すとん、とハナを座らせた。 「ここで、少し待っていなさい」 「えっ……、あの……っ」  ハナが声を掛ける隙も与えず、テラは踵を返して注文カウンターへと向かった。

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