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第31話

 目の前に、サンドウィッチとカフェラテが置かれる。 「食べなさい」 「……」  ハート型のラテアートが施されたカップからは、甘いコーヒーの香りが漂ってくるが、テラの用意したそれらに、ハナは手を付ける気分にはなれなかった。 「あの……」  控え目に、どう辞退しようか考えながら、顔を上げると、途端に腹がぐーと鳴る。心と裏腹に、素直に食欲を主張する身体に、ハナは心底、幻滅した。 (ぼくの感傷なんて、こんなものなのか……)  テラはブラックコーヒーを自分の前に置き、ハナの様子を真正面から見ていた。  いくら待ってもハナが食事に手をつけようとしないことがわかると、しばらくして、少し柔らかな口調でテラは言った。 「食べてくれ。嫌いなものが入っているのでなければ」  もちろん、そんなはずはない。テラが心配してくれていることはわかったが、同時に踏み込まないで欲しいとも思った。 「食欲が……ないんです」  ハナがやっとのことで言うと、テラは自分の前にあるブラックコーヒーのカップを横に押しやり、言った。 「今日は長い一日になる。夜までもたないだろうから、食べなさい」 「夜……まで……?」 「詳しい話は「ピアンタ」でするが、ハードな決断をする前は、空腹でない方がいい」  それでもハナが黙って躊躇っていると、テラは溜め息とともに、ぽつりと呟いた。 「十二歳の冬に、母が死んだ時、私も一時期、ものが食べられなくなった。だが、無理にでも食べて腹が膨れれば、気持ちもある程度は落ち着くことを学んだ。私のことをどう思ってもいい。だが、君が潰れるのは、駄目だ。食べてくれ。頼む……」  そんなことを言われたら、断れないことをテラは知っているはずだ。ハナが忸怩たる気持ちで、根負けしてサンドウィッチに手をつけると、テラはホッとした表情をした。  おずおずと持ち上げた一切れを、投げやりに口内に入れる。シャク、と音がして、パンの間に挟まったレタスが音を立てた。マスタードの味がする。シャク、シャク、と咀嚼するまで機械的に口を動かす。  美味しい、と感じた途端、視界がみるみる潤んできて、ものが見えなくなった。  ボロボロと、サンドウィッチを頬張りながら涙を流すハナに、テラは少し驚いた顔をした。ハナは、見せまいと思っていた涙を不用意に見せてしまったことに、半ば居直りに近い気持ちになり、流れ落ちる涙もそのままに、自棄に近い心情で、サンドウィッチを平らげはじめた。  やがて、咀嚼が終わり、カフェラテに口をつけたハナに、テラはそっと尋ねた。 「きみに、何があったか──、聞いてもいいだろうか?」  こくん、と頷いたハナに、テラは静かにハンカチを渡した。  咀嚼と嗚咽を交互に行いながら、ハナが牧野にフラれたことを話す。 「ぼく、は……っ」  知らない間に牧野のことを、ずっと傷つけていたのだと思った。兄の明を好きな気持ちは、牧野と同じはずなのに、牧野が想いを寄せているのがわかったら、兄の明のことまで、嫌いになりそうな自分が煩わしかった。アルファである明に嫉妬して、アルファに生まれ損なった自分を嫌悪して、我が儘なことばかり、考える自分が憎かった。  牧野に許しを乞いたかった。  あんな声を出させるほど、牧野が心に感情を溜め込んでいたことにも気づかずに、彼への想いに浮かれて、あんなレポートまで読ませてしまった自分の鈍さが恥ずかしかった。  テラはまっすぐにハナを見て、要領を得ないハナの話が終わるまで、ずっと静かに聞いていた。  そして、ハナが言葉を切ると、やがてぽつりと、慰めるでもなく、言った。 「私は、きみが生まれてきてくれて……、オメガで良かったと思っている」 「……っ、な、んで……」  一番もらいたくないと思っている言葉を返されて、ハナはクシャクシャになりながらテラを睨み返した。  しかし、テラは、腕を伸ばしてハナの眦から零れる涙を、その長い指で拭いながら、まるで自分が傷付いたような、苦しげな表情をした。 「嫉妬も、自己嫌悪も、僻みも、私にも覚えのある感情だ。人は、傷付いた痛みを怖れるあまりに、周囲に責任転嫁したくなる生き物なんだろう。だけど、きみは傷つきながらも、それに気づいている。こんな言葉は慰めにもならないだろうが、きみが、まっすぐ傷付いていることが、私には少し、眩しくて羨ましい」 「……っん、なの……っ」  胸をかきむしりたいほどに苦しい。  針の山を素足のまま歩いた方が、ずっと楽だと思うほどに。  自己憐憫に浸りたくなる自分など、いなくなってしまえばいい、とハナは思った。  しかし、テラは、ハナの心の内を読んだような、淋しげな微笑を浮かべ、言った。 「きみがオメガでなければ──こうして知り合うこともなかったろう。だから、私はきみがオメガであることに、今は感謝している」 「っ、ぅ……」  そんな風に肯定されたら、吹き飛んでしまう気がした。ベータの牧野とつがいになれない運命だったことも、アルファのテラに奔放に嬲られながら、途中で放り出されたことも、全部。  テラは、グシャグシャに泣きながら、ハナが鼻をすすり上げるのにも、全く嫌な顔をしなかった。  どころか、どこか安らぎを湛えた眸で、少し寂しそうにハナを見守っていた。

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