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第36話

 新曲の怒涛の振り付けがはじまってから、三日目の夜がこようとしていた。  四時間にわたるダンスレッスンが終わると、ハナは先に帰った「フィオーレ」たちを見送り、最後に裏口から出た。さすがに疲れたな、と溜め息をついて駅への道を歩き出そうとしたところへ、「ハナ」と声を掛けられた。 「テラ……? えっ、いつから……?」 「明に頼まれた。送っていこう」  ハナが振り返ると、長身のテラは、駐車場に停めてある車を親指で指した。  フィアットに乗り込むと、中はテラの匂いに満ちていた。久しぶりにテラのフェロモンの香りをかぐな、と思っていると、エンジンをかけ、車道に出たテラは、夜の光の海と化している街を走った。 「きみは、これからどうするつもりだ?」  不意にテラからそう問われた。 「引き継ぎのステージが終わったら」  テラは淡々としていたが、どこかが苦しそうでもあった。ハナは、自分の汗に混じって、匂いがこもっているのかもしれないと思い、許可をもらい、少しだけ窓を開けた。 「これまでどおり、バックアップに戻ります。学業もあるし」 「……そうか」 「テラは? これからも、ずっとフィオーレのプロデューサーをするんですよね?」 「ああ。「フィオーレ」は私の呼吸できる唯一の場所だったからな」 「公演、うまくいくといいです」 「そうだな……」 「はい。……緊張しますけど、精一杯頑張ります。頑張ることしか、ぼくにはできないし」  テラの運転は静かで安全だった。信号が赤になり、繁華街の混み合った十字路の手前で止まると、光の渦が、輝いて見えた。まるで、「フィオーレ」のライブステージに初めて立ったあの日、ハナが見た、サイリウムの踊る舞台上からの景色に似ていた。 「あの、テラ……、今まで、ありがとうございました」 「どうした、急に」 「あなたがいたから、ぼくはこうしていられるんだと思います。つらいこととか、色々あったけど、あなたに支えてもらった。ずっと、お礼を言わなくちゃと思ってたんです。それと、これ」  パスケースに入ったカードキーを見せると、テラはチラリと視線をやり、すぐに前方に戻した。車が緩く前進する。 「カードキー、返さなきゃと思ってて、忘れるところでした」 「……持っていてくれ」 「え? でも」 「きみに持っていてほしいんだ。頼む」  ハンドルを右に回し、テラはそう言ったきり、黙った。ハナは手持ち無沙汰になってしまったカードキーのケースを、再び鞄のポケットに入れ直した。 「テラ、今のは狡いです」 「?」 「お願いされたら、ぼくが断れないって知ってるくせに……」 「ハナ……」 「でも、ぼく、あなたには感謝してるんです」  最初は、酷く嫌だったし、簡単には折れないつもりでいた。あの頃が少し懐かしくなり、ハナはちょっと微笑んだ。 「あなたは、新曲と新しい衣装と卒業公演の夢をくれた。人前で歌って踊る勇気と楽しさをくれた。バース性について、考える機会をくれた。ぼくの矛盾や葛藤を受け止めてくれた」  ハナはそこまで言い、息を吐いた。 「どれも、大きな贈り物です」  こんなにたくさんの想い出を、テラにもらうだなんて、最初は考えもしなかった。 「最初に逢った日に、傲慢だって言ったの覚えてますか? あれ、取り消します」 「……なぜ?」 「全然そうじゃなかったし。不遜だとか傲慢だとか、思ってたぼくの方がずっと、そうだったし」  テラと出逢わなければ、ハナは今でも自分を「ひとりぼっちの、可哀想で不幸なオメガ」だと思っていただろう。けれど、バース性と関わりのあるところで、人はみんな、悩んだり、傷ついたり、間違ったり、正しくあろうとしたりする。  そのことに気づかせてくれたのは、テラだった。 「──私はきみに酷いことばかりした」  その時、テラが不意に思い詰めた声を出した。 「許してもらえるとは思わないが、謝罪したいと、ずっと思っていたんだ」 「許しますよ、そんなの……。とっくに許してます」 「ハナ──」  ぎっとハンドルをテラが握る音がした。何かに耐えるテラのその仕草に、テラは、ハナが許しても、他の誰かが許しても、自分自身を許せないでいるのかもしれない、と思った。いつか彼が、抱えている苦しみから、自由になれるといいな、と願った。そのために、自分にできることがあるなら、全力でやろう、と思う。  車がハナの家の門前にきて、止まった。 「キーはぼくが持ってていいのなら、そうします」 「──ああ」  ハナは、笑っても、もう胸が痛くならないことを発見した。  それもきっと、テラのおかげだった。 「明日のライブ、勝手なお願いですけど、できれば、生で観て欲しいです」  俯いて、それだけ言うと、ハナは照れ隠しにわざと明るい声を出した。 「それじゃ、今日はありがとうございました。……おやすみなさい」  いつか、いつの日か、この人のもとにも、安息が降り立ちますように。  ハナは心から祈りながら、テラに背を向けた。

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