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第38話

「テラ……!」  裏口を出ると、ちょうど駐車場にいたテラが振り返った。テラは、フィアットのドアを開けたところだった。 「あのっ、お花……ありがとうございました」  息を弾ませ、テラのすぐ傍まできたハナに、テラはどこか上の空のままだった。 「ああ……、白い花といえば、百合しか思い浮かばなかったんだ。──なぜここに? きみには、もう自由だと、言ったはずだったんだが……」  ハナは、そんなテラに近づきながら、息を整える間も惜しんで、言った。 「ぼくが、オメガだって噂を流したの、あなたですか?」 「いや……? なぜそう思う?」 「良かった……」 「良くないだろう。酷い言いがかりだ」  鋭い視線を投げてくるテラに、ハナは素直に頭を下げた。 「ごめんなさい」 「……まあいい」  その時、ビュウ、と風が、二人を攫うように通り抜けた。ビルとビルの間の吹き抜けのような構造をしている駐車場は、初夏にさしかかりつつある中で、まだ少し寒かった。 「送ろうか?」 「え?」  突然の申し出に驚くと、テラはどこか気まずそうに顔を伏せた。ハナの方を見ようとしない。だが、その声は穏やかで、どこか抑制的だった。 「花束を抱えたまま、電車で帰るのもつらかろう。そこまで頭が回らなかった。荷物を持ってきなさい。待っているから」 「あ、はい……!」  テラの一声に、ハナは弾かれたように踵を返した。 ☆  こうして送られるのは、二度目だな、とハナはフィアットの助手席で思った。  二人きりになると、話したかった言葉が何だったのか、思い出せなくなる。あまりにも色々なことがありすぎて、どこから話せば、テラと長くいられるのか、わからない。 「テラは……どうして地下アイドルのプロデューサーをしてるんですか?」  結局、当たり障りのない無難な話題を、振ることしかできないことに、ハナ密かに懊悩した。 「楽しそうだと思ったんだ」  テラはハナの質問に、淡々と、だが、率直に答えた。 「……明と再会した頃の私は、夢を断たれて荒れていた時期でね。明が見かねて、趣味でやっている地下アイドルのプロデューサー業の幾らかを、引き受けてくれないかと言ってきた。私はその話に乗ったんだ。……前にも話したと思うが、私は私を生かすための場所が、どうしても必要だった。そのひとつが、地下アイドルのための衣装づくりだった、というわけだ」 「でも、本業と両立するの、大変なんじゃないんですか? 辞めたいと思ったことは?」 「ないね。こういうことは、損得では計算できない。……答えになっていないかもしれないが」  テラがハンドルを静かに切りながら、言う。ハナはその内容よりも、声に聞き惚れている自分に気がつき、しっかりしろ、と自分を叱咤した。 「……純真な人ですね、テラって」  ハナが言うと、テラはチラリとハナの方を向いて、視線を前方のフロントガラスに戻した。 「最初は怖くて、何て酷いことをするんだろうと思ってたのに……、気がついたら、あなたの期待に答えられたら、と思うようになってました。──テラはすごい」  夜も遅い時間帯になり、夕方から我慢していた雨雲が涙を滴らせはじめる。車窓にも雨粒が落ちかかり、テラはワイパーを稼働させた。車内の沈黙が、少しかき回される音がした。 雨に滲んだ信号が青に変わると、テラはやにわに細い一通の道に入った。 「あれ? これって……?」  近道だろうか、と訝しんでテラの方を見ると、いきなりブレーキを踏まれ、ガクン、と仰け反った。驚いたハナが振り返ると、テラの群青色の眸が振り向いた。 「──きみは悪魔か」 「えっ?」 「わかってやっているのだとしたら、相当タチが悪い。だが、きっとわかっていないのだろうな……」 「え、どういう……」  ハナが意味を問いただそうとすると、テラは溜め息をついて、引いたサイドブレーキを解除した。 「……何でもない、すまなかった」  そのまま、何事もなかったかのように、車を発進させると、何度か右折して、元の道に戻った。車が進み、ひとつ信号に引っかかるたびに、ワイパーの音が沈黙を引き裂く。ハナは、話したいと思っていたことをひとつも話せていないことに、焦りを感じはじめていた。  家の近くまでくると、これが最後かもしれないという気分になった。減速した車内で、ハナは思い切って声を上げた。

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