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第40話(*)
痛いほどに、心臓の鼓動がする。
「いつ……から……」
「いつだったか、どうしてだったか、どこから話せばいいのか……」
テラが、ガリ、と後頭部をかいた。その瞬間、絢爛と開花する薔薇の香りが、ハナの鼻腔の奥深くまではいってきたのがわかった。
(──あ……、これ……)
テラの匂いだった。ハナは胸いっぱいに吸い込んだ。テラを見ると、フロントガラスに視線を移して、戸惑っている。
前を見ているテラの横顔は、怜悧で、少し後悔に似た躊躇いを映していた。ずっときれいだとは思っていたが、こんなにもきれいな人だったのだと、どうして今まで気がつかなかったのだろう、とハナは思った。
その瞬間のことだった。
「ん……っ?」
ズキン、と下腹の奥を、痛みに似た感覚が走った。ズキン、ズキン、とそれは次第に大きく膨れ上がってくる気配がする。
「ハナ……?」
沈黙してしまったハナの、様子がおかしいことに、テラも気づいたようだった。
ハナは、まずい、と思ったが、鞄を探る余裕もないまま、その感覚に身体が囚われてゆくのがわかった。
「ぁ……ど、どうし……っ」
刹那、ぶわっ、と汗と一緒に鳥肌が立った。それで、もうこの感覚を、意識するだけでは抑えきれない、とハナは気づいた。このままでは、巻き込んでしまう、と思ったハナが身体を丸めると、テラが心配そうにハナの名前を呼んだ。
「ハナ……、どうした?」
「あっ……、ごめ、なさ……っ、ぼく──……っ」
間違いない。これは……、と思う間もなく、次の波がくる。突発発情の兆候だった。
「んっ……、ひぅ……っ」
激しい渇きがやってくる。
ハナは身体を捩って、どうにか感覚を逃がせないかと悶えた。が、強すぎる衝動に、シートに擦れるだけで、快楽が生まれてしまう。目が潤んで、視界が狭くなる。震える手で鞄を探っていたが、いつも底の方に入れているはずの抑制剤の注射器が、どこを探しても見つからない。
「は、ぁ……っ、こ、んな……っ」
こんなところは見られたくない。
テラが戸惑いを孕んだ目で、ハナの方を注視している。
「──発情か?」
頷こうと思ったが、テラの放った言葉すら、鼓膜を通して甘い痺れに変換されてしまう。アルファがいるから、アルファに対して、こうなってしまうのが、オメガの体質だ。いくら日常で注意して、発情抑制剤を飲んでいたとしても、くる時は一瞬で、波に押し流されるようにして、くる──。
どうしよう。
どうしよう。こんな狭い車内で、発情したら……。
テラを巻き込んでしまう。せっかく、あんなに真摯に告げてくれた言葉を、踏みにじる真似はしたくないのに。何もかもを押し流し、テラとつがうことしか考えられなくなってしまう。それは、彼の誠意を踏みにじるに等しい。暴力的な、衝動だった。
(──嫌だ、イきたくない……っ)
「ぁっ、あ! ゃ……っ、テ、ラ……ッ」
ごめんなさい、と念じながら蹲っていると、テラがそっと背中を撫でた。仰ぎ見ると、テラの表情も、どこか滲んで苦しそうだった。オメガの発情に当てられているのだ。あれだけ用心深く、薬を服用することで事故を避けてきたのに、こんな形で暴走するなんて──。
嫌だ。
どうしよう。
そう思った時だった。
突如、抱き竦められ、耳朶を甘噛みされると、キン、と脳髄に快感が響いた。同時に、テラの手が、ハナの肩を掴み、引き裂くようにして、シートに寝かせられた。かと思うと、腕を捲り上げられ、チクリ、と嫌な痛みがした。
「……っぅ、……!」
ハナの鞄に入っていた抑制剤を、テラが注射したせいだった。
「はっ……、はぁ……っ、は……っ」
息をするたびに、肺がみしみしと軋む音を立てる。涎が滴り落ち、急激な寒気がし出す。身体がガタガタと震えはじめ、同時に全身の筋肉が弛緩する。すると、意図しないまま、シートに粗相をしてしまった。抑制剤の、副作用だった。
「ぁ、ゃ──……っ」
止まれ、と念じるのに、じわりとした性器の痛みとともに、下肢を濡らす液体が広がっていく。ハナは、羞恥のあまり、このまま死んでしまうのではないかと思った。
「ご、ごめ……っ」
「ハナ」
半泣きになって、テラに顔を見せられず、横を向いていると、テラは静かに震えるハナの手首を取った。
「ハナ、大丈夫だ。こちらを見てくれ」
「ぅ、ひっく……」
すすり上げるハナに、テラは優しく声を掛けた。
「確認したいが、君の発情は止まった? 止まったんだな?」
切羽詰まった声で問われて、こくこくと頷くと、テラはシートを汚されたにもかかわらず、そっとハナの額にキスを落とした。
「良かった……。すまないが、このままきみを、ひとりで家に帰すことはできない。私が付き添うから、もう少しだけ、我慢してくれ」
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