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第41話
テラはそう言うと、フィアットを運転して、自分の住処のホテルへと取って返した。
駐車場に車を入れると、ハナを背負って最上階まで連れていき、シャワールームで身体の、主に下半身を洗うと、寝室のベッドに寝かせた。
そのあと、色々な手配をするのに忙しかったらしく、テラがハナの眠るベッドルームへ引き返してきたのは、日付が変わる頃だった。
「ん……、んん……っ、ご、めん、なさ……い」
「問題ない。それより、まだ少しつらいか……? 水は?」
「ほし、い……」
ハナが手を出すと、服を着替えたテラのスラックスを引っ張る。
「駄目だ。止しなさい。水は?」
「んっ……」
ごくごくとペットボトルの水を流し込んで、ハナは、やっと少し落ち着いた気がした。
しかし、狭かった視野が、少しだけ広がり、周りが見えてくると、羞恥心と罪悪感に苛まれた。
「抑制剤……飲んで、ますか……?」
ハナが確認すると、テラは柔らかな表情で手を伸ばしてきた。ハナの髪を、一房掴んで梳く。
「さっき口に入れた。大丈夫。安心しなさい」
「ん……っ」
発情の名残りで、身体のあちこちの関節が軋んだ。初めて突発発情を迎えた時の、昔の記憶が蘇る。
あの時は、兄がいてくれたから助かった。
だが、発情が引いてから、数日間、寝込んだことを思い出していた。
「寒くないか? 震えている」
「だいじょ、ぶ……」
テラは、ベッドの上のハナに、毛布を持ってきてくれて、耳の辺りまですっぽりと覆ってくれた。正直、ハナ自身では、寒くて震えているのか、暑くて震えているのかわからなかったため、テラの気遣いが有り難かった。
その毛布の上から、テラがベッドに上がり、抱きしめてくれた。
添い寝をしてもらって、これで少しは暖かくなるかもしれない……、と考えると同時に、ハナは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
シートを汚して、服も汚した。その後始末までさせたのだ。こんな風に突発発情してしまった人間のケアをさせるなんて、と思うと、情けなくて、涙が出てきた。
「何を泣く。……大丈夫だ。家には電話しておいた。泣くな、ハナ……。それとも、どこか痛いのか?」
「ぼく、は……」
「痛くない……? なら、安心して眠りなさい。眠ったあとは、回復しているから」
「ん……」
テラの言葉が有り難かった。
だが、ハナはまだ、眠るわけにはいかない、と思った。まだ、訊いていないことがある。怖いけれど、この件についてハッキリさせないと、とても暗闇に落ちていける気分にはなれなかった。
「テラ……、ぼく……」
「どうした……?」
ハナがぽつりと漏らすと、テラは後ろから抱きしめながら、ハナの髪を一房、梳いた。
「何も気にするな。少し眠れば良くなる」
「ぼく……しても、いいです」
ハナは制御しきれない疼きが、身体に残っているのを感じながら、朦朧としたまま、言った。自分の言葉に、驚いていたが、同時にこのことについて、テラの意見を聞かなければ、と思った。
「馬鹿なことを言うもんじゃない。眠りなさい」
叱られて、毛布に顔を埋める。
テラはしばらく黙っていたが、まだ眠らないハナのうなじに顔を埋めると、再びぽつりと呟いた。
「今、きみに手を出したりしたら、私は本物のろくでなしになってしまう。わかるだろう、ハナ」
テラの声は抑揚が効いていたが、少し苦しげな色をしていた。
「好き、なのに、どうして……。ぼくを、抱かないのは、……オメガだからですか? 面倒なことになりそうなのが、わかっているから……?」
「……」
耳元で、頭の後ろで、テラがする呼吸の温度が暖かかった。テラは、しばらく微睡んでいたのか、長く沈黙していたが、やがてぽつりと漏らした。
「違う」
「ぼくじゃ駄目なんでしょうか。あなたの相手には、不足なんでしょうか……?」
「違う、ハナ。それは間違っている」
「でも……」
ハナが言い募ると、テラは少し身じろぎをした。色々なことがいっぺんにありすぎて、疲れているのはテラも同じかもしれない。
「きみを抱かないのには、幾つか理由がある」
「理由……?」
「ひとつ目は、きみが明の弟だからだ。彼にそのことが知れたら、鬼のように怒るだろうからな」
「それが、理由、ですか……?」
「まだある。ふたつ目は、きみとの契約がもう切れているからだ。きみはもう、フィンや「フィオーレ」たちのために、自らを犠牲にする必要はない」
「みっつ目は?」
「マキノだ。きみが、彼を好きだったから」
「よ、よっつ目は?」
「きみが、運命の人を探している気がしているからだ」
「……いつつ目は? いつつ目もあるんでしょうか」
「それは──、きみが私を愛していないと知っているからだ」
「……それは──」
「同情はいらないよ。ただ、きみが愛する人と結ばれたいという気持ちは、尊重したい。それに……そうだな、きみが言ったように、きみがオメガだから、というのも理由のひとつだ」
ハナが息を呑むと、テラは優しく話を継いだ。
「もっとも、私はきみがオメガで良かったと、今となっては思っているが」
「どう、して……」
以前と同じことをテラは言う。
どうしてそんなことが、言えるのだろう。
こんなに迷惑を掛けて、面倒を見させて、後始末をさせて、さらに迷惑を掛けているというのにだ。
しかし、テラは少し笑う気配をさせたあとで、寂寞とした声を出した。
「知っているくせに、それを私に言わせるのか?」
「知って、いる……」
ぼくが?
テラの、一体、何を知っているというのだろう。
そう考えた気配を悟ったのか、テラはハナを抱える腕に、ぎゅっと力を入れた。
耳元で、静かな音を吹き込む。
「最後の理由は──私が、きみを愛してしまったからだ」
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