42 / 49

第42話

「きみを愛している、ハナ」  囁かれた言葉は、名残り雪のようにハナの鼓膜に染みていった。 「きみは素直で、乱れると色めいて、抑制剤を飲んでいてさえ、艶美だった」 「い、つ……、から……」 「いつからだったか……、きみにキーを渡しても、問題ないだろうと信頼した頃には、それなりに惹かれていたと思う。……だから、あの時は、つらかった」 「あ……」  テラの寝室に忍び込んで、自慰をした時のことを言われ、ハナは同じ部屋で、今、テラと一緒にいることが、急に恥ずかしくなった。 「あの、あの時は……、ほんとに」 「謝らなくていい。あの時、きみが泣くのが、酷く堪えることに、私はただ、戸惑っていたんだ。水族館に行った日曜日、マンボウの前で、きみに今まで独りでしてきた私の努力を、認めてもらえた気がして、嬉しかった。なのに、ホテルへ帰ると、やっぱりきみを泣かせてしまった。胸が掻きむしられる気がして、平静を保てないほどだった。──あの日以来、私はきみの虜だ」 「テラ……」  テラは再び身じろぎをすると、寝物語でも語るような口調で言葉を継いだ。 「きみに素っ気ない態度を取るつもりはなかった。でも、嫌がるきみを、無理矢理に抱くのは、何かが違うと思った。だから、最初から、やり直そうと努力してもみたが、どうも私は、人と上手くやるのが苦手なようだ。言葉が足りないのかもしれないな」  テラは言葉を切り、短く息を吐き出した。まるで、告白を終えたことに安堵したような感じだった。 「最初は、向こう気の強いオメガの鼻っ柱をへし折ってやるつもりでいただけだった……。けれど今は、きみがオメガだろうと、そうでなかろうと、きみがオメガである自分を拒絶していてさえ、私はそんな、きみのことが好きなんだ」 「だっ……」  だって、そんなこと、一言も……、とハナはぐるぐる考えた。一言も、言わせなかったのだろうか、ハナの態度が、頑なすぎて。  テラは、ハナの頭髪に顔を埋めて、つむじにそっと甘いキスをした。 「きみを好きになってしまってから、隙に乗じて抱くような真似はしたくなくなった。──不思議だ。これまで、欲しいものは奪ってきただけだったのに。誰からか奪われた分、私は奪い返して、勝ち取ってきた。だが、きみに対しては、それができなかった。……ハナ、私は、そんな、最低な奴なんだ」 「わ……わ、かりません、どうして、あ、愛してると、どうして……」 「わからないか? きみを無理に抱いたら、その時点で私は、きみにとって「嫌なことを強いた、その他大勢の最低なアルファ」になってしまう。私は、きみに、こちらへ向いて欲しい。どんなに無様でも、きみを愛している男がいることを、知って欲しいと思った……」 「……」  テラは、これでひとつ夢がかなったな、と寂しそうに呟いた。  ハナは、テラが苦しそうにしていた理由に、やっと辿り着いた気がした。  どうにかテラへ向けて、寝返りが打てないかともぞついた。しかし、毛布の中の身体はすっかり温まり、心地よい眠りに誘おうとする。  テラはハナの髪を再び梳くと、言った。 「……だから、今から言うことを、よく考えてくれ。きみが好きだ。きみのことが。きみの全部を私は愛したいと思っている。でも、それにはきみの協力が必要だ」 「協、力……?」  ハナが問い返すと、テラが頷いた気配がする。眠りの帳が開かれようとしていた。ハナは必死に逆らうようにして、もっとテラの声を聞いていたい、と思った。 「オメガである自分自身を受け入れること。自分を肯定することだ」 「あ……っ」  刹那、腰の辺りにゴリ、と硬いものが押し付けられた。テラの昂りだとわかったハナは、耳が少し熱っぽくなるのを感じた。「きみといると──抑制剤を飲んでさえ、これだ」とテラは自嘲気味に言った。  じわり、とハナは、視界に涙が湧いてくるのを感じた。だが、幸いテラは、そのことに気づいていなかった。  もう寝なさい、と優しい声でテラに諭され、ハナの視界は狭まり、閉じていった。

ともだちにシェアしよう!