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第21話 男
その日の昼の食堂は、黒瀬教授の辞任の噂がどこに行っても話題の中心だった。
黒瀬の相手と噂された外科のナースが誰なのか、人の目も気にせず大きな声で話す人間までいた。
慧は、朝から姿を見ていない理人を食堂でも探したが、見つけることは出来なかった。いつも昼食に誘ってくれるさくらは、今日は調剤室でまだ仕事をしている。周りの好き勝手な噂話を聞きながらため息をつき、慧は一人で昼食を済ませ、食堂を出た。
薬剤部に戻る道すがら、職員用の喫煙室から数人のドクターが談笑しながら出て来るのに遭遇した。その中に黒瀬はおらず、慧は彼らに軽く会釈をして通り過ぎようとした。その時。
半分開いた引き戸の隙間に、慧は理人の姿を見た。
意外だった。
理人が喫煙者だと、おそらく薬剤部の誰も知らないだろうと慧は思った。
立ち止まったままの慧と、その視線を感じて振り向いた理人の目が合った。
煙草をくわえた理人は、いつもの線の細い中性的な雰囲気はなく妙に男臭かった。慧は、真人が煙草を吸っている姿を思い出した。気分が悪い時に吸う、そんなところも似ているのか。
慧がそんなことを考えている間に理人は煙草の火を消し、ゆっくりと近づいてきた。
理人から近づいて来たことに、慧は知らず身構えていた。
あの日の理人の姿態はいまだ慧の中にはっきりと残っている。
「・・・すごい噂になってるみたいだね」
抑揚のない声で、理人は言った。身体から、うっすら煙草の匂いが漂ってくる。慧は、そうですね、とだけ答えた。
「君は、僕と教授のことをリークしようとは思わなかったの?」
「そ・・・そんなことしません!」
「・・・それは、君も・・ゲイだから?」
「それも・・・あります」
「も?」
慧は言葉を切った。理人は、冷たいほどにポーカーフェイスだった。
「俺は・・・先輩を売ったりしたくないんで」
「・・・それは、僕のこと?」
「・・・はい」
「あんなもの見せられて、まだ僕を先輩として見られるのか」
理人の口元に、自嘲的な微笑みが浮かんでいた。
白衣のポケットに無造作に手を突っ込み、軽く脚を開いて立ち、慧の瞳をまっすぐに見つめる男は、慧が知っている穏やかで上品な長谷川理人とは別人だった。
慧は、理人と真人が双子であることを、このときはっきりと実感した。
普段は見えなかった理人の強さや雄の部分が、真人によく似ていたのだ。
「先輩は、先輩です。それは変わりません」
きっぱりと言い切った慧に理人は少し驚いた顔をしたが、すぐに表情を消して、話を打ち切るように歩き出した。
慧の横を通り過ぎようとした理人のワイシャツの襟元から、いつかよりもずっとはっきりした赤い痕が見えた。
慧はそれを見た瞬間、無意識に声を上げていた。
「長谷川さんは、あれでいいんですか」
理人が立ち止まった。そして首だけ振り返って、何が、と言った。
「噂は・・・噂でしかないでしょうけど、黒瀬教授の周りに女性が多いのは事実ですし・・・長谷川さんだって」
「僕が、何」
理人は慧に向き直った。その瞳に明らかに苛立ちが見える。いつもなら口ごもるところで、慧は自分でも驚くほどすらすらと言葉が滑り出た。
「長谷川さんだって・・・あんなことさせられて、平気なんですか。噂になるような女性もいて・・・扱いというか、もっと大切にされたいとか思わないんですか」
慧の言葉がとぎれた瞬間、すごい力で理人は慧の腕を掴み、無人の喫煙室に逆戻りして乱暴に扉を閉めた。
慧の顔の真横にドン、と音をたてて手を突き、理人は見たこともない残忍そうな笑顔で詰め寄った。
「・・・君は、本当にゲイなわけ?ノンケなんじゃないの?」
「え・・・?」
「そうじゃなければ・・・よっぽど幸せな恋愛しかしたことがないのか?ああ・・・まさか童貞?」
「ち、違いますっ!なんなんですか、一体」
「なんなのか聞きたいのはこっちだ。信じられないよ、そんな青くさいことを言う奴には会ったことがないね」
理人の口調、表情、慧を掴んだ腕の強さ、すべてが慧にとっては驚きだった。首筋の赤い痕に注がれる慧の視線に気づき、理人はぐい、とネクタイを緩めてワイシャツの一番上のボタンを開いた。
見え隠れしていた痕のほかに、いくつもの愛された印が露わになった。
「扱い、ね。こういう痕をつけられて、あんなことを人前でされる僕は、可哀想だと・・・愛されてないとでも言いたいのか」
「あ・・・あの・・」
「身体の関係だけじゃ大切にされてないと、女みたいなことを言われるとは思わなかったよ。同じセクシュアリティを持つ男に」
「そういうことを言ってるんじゃありません!ただ、俺は他にも方法があると思っただけで・・・」
「方法?他にどんな方法があるのか知ってるなら教えてくれないか?男でも孕めるやり方があればぜひ教えてもらいたいね」
「なんてことを・・言うんですか・・・」
「・・・君は男として生まれて、男しか愛せなくても、そんな甘いことを言ってられて、幸せな奴だ。僕とは住む世界が違う」
「失礼すぎませんか・・・いくら先輩でもそんな・・・」
「分からないだろう、君には」
慧から身体を離して、理人は再び煙草を取り出した。口にくわえたまま、火をつけて、横向きに煙を吐き出した。その横顔が、真人とみまごう。
理人は半笑いの顔で改めて話しだした。
「女という性で生まれれば、運が良ければたとえ一回のセックスでも、孕むことが出来る。紙一枚で、妻になることだって出来るわけだ。相手をさほど愛していなくたって・・・妊娠を逆手に取って結婚を迫ることも、安定した生活のために男を利用することも出来る。ただ、女、というだけで、だ!」
「長谷川さん・・・?」
「男は・・・何になれる?どんなにセックスを繰り返して、何度精子を身体に注がれたって、流れ出ていくだけだ。いつ、女のもとに帰って行くかわからない相手を、どうやってつなぎとめられる?妻にも、母にもなれない性で、愛してるって言ったらずっとそばにいてもらえるなんて、君は本気で思ってるのか?」
理人は泣いていた。慧に言っているようで、自分自身に向かって言っていた。
「人前でどれだけ恥ずかしい姿を晒そうと、この身体を求めてくれるなら、僕は喜んで差し出す。僕を見て、あの人が欲情してくれるなら、僕にとってそれは愛されている証だ。・・・僕はあの人を愛してる。あの人も僕を必要としてる。性欲が愛じゃないと、誰が決めた?!」
理人は壁を拳で叩いた。握った煙草の灰が、床に落ちた。
短くなった煙草を灰皿に押しつけ、理人は涙も拭かずに喫煙室を出て行った。
慧を通り越す時に、理人は感情のない声で呟いた。
「君の相手はずいぶんと優しい男なんだな」
それから数日後、下世話な噂が病院中に広まった状態で黒瀬教授が辞職し、合わせたように理人は一週間の休暇に入った。
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