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第26話 手術

その日は快晴だった。 午前中から始まる手術に向かう黒瀬は、理人の手を一度だけ強く握った。 必死で平静を保とうとする理人を、真人が力強く支えた。 黒瀬は、自分の持病のことを誰にも知らせていなかった。唯一、准教授の杉山だけが知っており、執刀医の小早川との連絡を取っていた。 激しい戦いであったと有名な、T大付属病院第一外科の教授選を勝ち抜いた黒瀬であったが、いまだ院内に敵も多かったため、極秘の闘病だった。 悪化してからは、人知れず仕事を杉山に引き継がせ、手術を決めるのと同時に、辞職した。 真人と出会った頃に結婚していた妻には、莫大な慰謝料を払って縁を切っていた。 その他に手術のことを知らせた家族はおらず、理人と真人だけが黒瀬の帰りを待っていた。 慧は黒瀬の手術の日、休みをとり、病院を訪れた。 黒瀬の病室のドアをノックすると、聞き慣れた真人のはい、と答える声がした。 ひとつ大きく深呼吸して、慧は引き戸を開けた。 今は無人のベッド脇に、真人が立っていた。その影に、背中を丸めてパイプ椅子に腰を降ろした理人。 白いシャツにデニム姿の理人は、病院で見る凛々しさはなく、シャツの襟からのぞく首筋が、ひとまわり痩せたことを知らせていた。 「慧!」 真人が出した声に、理人が顔を上げた。目が合った瞬間、理人の顔が青ざめていくのを見て、慧は製剤室で遭遇した時のことを思いだした。 急に現れた同僚に、理人はとぎれとぎれに呟いた。 「どうして・・・知って・・・」 慧は思わず深く頭を下げた。真人が理人の肩に触れて、優しく言った。 「理人・・・話しただろう、俺のパートナーだよ」 「パートナー・・・?萩野くんが・・・?」 理人の瞳には、抗議とも、驚愕ともとれない複雑な感情が滲んでいた。 慧は、何も言えずただ二人のやりとりを見つめることしか出来なかった。 「理人、彼に昔のことも話してある。その上で、俺の側に居てくれると言ってくれた」 理人は目を見開いて、真人の腕を掴み叫んだ。真人は表情を変えず、弟にされるがままにしていた。 「なんでっ・・・話したって・・・どうしてそんなこと!」 「・・・理人、大丈夫だから」 「大丈夫なわけあるか・・・っこの男は・・・」 「・・・お前に一樹さんが必要なのと同じで、俺には慧が必要なんだ。どうか・・受け入れてほしい」 「・・・っ・・・!」 「慧は一緒に、一樹さんを待ちたいと言ってくれたよ」 真人の言葉に、理人の視線が慧を捕らえた。慧はたじろいだ気持ちを隠して、小さくうなづいた。 理人にどんなことを言われても、受け止める覚悟でいた。それが真人と一緒にいるために、まずやらなければならないことだと、慧は思っていた。 理人は理解できないと言わんばかりに唇を噛んで、慧をねめつけていた。慧の背中を冷えた汗が伝う。 今までのことが全て、二人の間でせめぎ合っていた。 「・・・勝手にしたら。俺は知らない」 理人の一人称が「僕」ではなく「俺」であることで、今が特別な状況であることが慧にも分かった。 慧に背を向けて椅子に腰を降ろした理人を気遣いながら、真人は慧に申し訳なさそうな笑顔を見せた。 「ごめんね、理人がきついことを言って」 「いいえ・・・気を張っているでしょうから当然です。こんな時に負担をかけてしまって・・・」 待合室に出てきた慧を、真人が追ってきた。真人も、わずかに痩せたように慧の目には映った。紙カップのコーヒーを飲みながら、二人は隣り合わせて座った。先客の老人が、ナースに付き添われて病室に戻って行った。 「教授の手術は・・・うまくいきそうなんですか」 「・・・確率は50%だそうだ。6時間の大手術で、相当難しいらしい。かなり進行していたらしいからね」 「病院ではそんなそぶり、教授は見せませんでした。本当に誰も気がついていなくて・・・強い人ですね」 「理人のために、決意したと言ってた」 「理人さんのため・・・?」 「手術を受けなければ、長くてもあと1年・・・リスクはあるけど、この手術が成功すれば、もっと生きられるからって・・・」 『僕はあの人を愛してる』 『僕を見て、あの人が欲情してくれるなら、僕にとってそれは愛されている証だ』 黒瀬と理人は、互いを誰よりも何よりも大切に想っていた。 本心を伝えることなく、黙って相手のためだけに生きる。 慧は右手の腕時計を見た。きっと今も、黒瀬は理人のために必死に戦っている。 慧は、両手を祈る形に組んだ。 黒瀬の手術が終わったのは、すっかり陽の落ちた頃だった。 手術室から出てきた黒瀬は、青白い顔で昏々と眠り続けた。 執刀医の小早川は、もし一週間経っても目が覚めなければ、諦めるしかない、と言った。 理人は泣き叫ぶでもなく、放心したように黒瀬のベッドの隣で、彼を見守り続けた。 真人が話しかけても、理人はぼんやりとうなづくだけで、日に日に口数が減っていった。 時折黒瀬の手を握り、かずきさん、と話しかけるが、それ以外は人形のように椅子に座って見つめているだけだった。 そうして手術から一週間が経った。

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