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第11話 結婚式大作戦編

「帝都ホテルに、知り合い?」  俺が振った話に、恵介の表情が一瞬ピリッとした。  先輩の言っていること。要はアレだ。 『今から式場決めるんだけど、どうしても3月に帝都ホテルで挙式と披露宴をしたい。知り合いがいれば、おいしい思いができる』んじゃないかって……。先輩らしい思考だ。 「いなかったらいなかったで、そう言うからいいよ、恵介」 「……いる」 「え?」 「いるよ。大学の友達で、帝都ホテルのブライダルに就職したヤツが」 「……マジで?」 「連絡するよ? 佐竹さんの役にも立ちたいし」 「……いいのか?」 「ああ、いいよ。紘太覚えてないか? 大学の時、よく家にきてたんだけど」 「え?」 「幸田結也だよ。スラっとしててカッコいいヤツ、覚えてない?」 「……いや、わかんねぇ」 「人見知りのおまえにも、良くしてくれたじゃん」 「おぼえてねぇよ」 「人当たりもいい上に、かなりいいヤツなのに、なんで覚えてないんだよ」 「ライバルは覚える必要ないから」 「はぁ?」  恵介が怪訝な顔をして返事をした。  だってさ、カッコいい……? かなりいいヤツ……?なんか、恵介の口から「いいヤツ」とか「カッコいい」とかいうワードを聞くと。俺は無条件に嫉妬してしまう、そういう仕様になってしまったらしい。  だから今、現に。記憶から強制抹消した幸田結也という人物に、ソワソワしてイライラして……感情が抑えられなくなる。 「……紘太、おまえなんか、妬いてる?」 「……いや、別に」 「根本的に間違ってるから言うけどさ。幸田はどっちかっていうと、僕と同じ部類に入るハズだから安心しろって」 「……え?」  恵介の衝撃発言に、俺は目が点になった。 「……ネコってこと?」 「うん」 「……それ、本人が言ってんの?」 「いや、単なるカン」 「……」  いや、しかし。恵介のそういうカンってやたら冴え渡るから、たまに恐ろしいんだよな、マジで。 ✳︎   『いいよ、そういうことなら大歓迎だよ。ブライダルサロンの直通を教えるから、佐竹様か林様か、僕に連絡頂けたら助かるよ』 「悪いな、幸田。……今度さ、久しぶりに飲みに行かないか?」 『いいね。木曜日ならいつでも大丈夫だよ』 「木曜日?」 『うん、実は今、ちょっと……いや、だいぶ離れたとこに住んでて……。仕事柄平日が休みだし、休みの日はそっちに帰んなきゃいけないからさ』  電話口からでもわかる幸田の照れた感じに、僕は思わず納得してしまった。あぁ、なるほどな。同棲してんだ、幸田。  へぇ、幸田もすみにおけないなぁ。どんな人なんだろう……幸田の相手。  あんなにスマートで物腰が柔らかくて、オシャレでセンスもあるのにも拘らず。〝無類のドレス好き〟っていう驚くべきギャップの持ち主である幸田。でも、幸田の声の感じからして。幸田の全てを受け入れてくれてる人なんだろうなぁ、って察しはついた。  ……明るい、幸せそうな、そんな声。  きっと幸田の抱える幸せは、佐竹さんたちに伝播するはず。ドレス好きだから、あの甘い声の総務課女子が似合うイイヤツを選んでくれるに違いないし。センスがいいから佐竹さんも、めちゃめちゃイケてる感じにしてくれるに違いない。  僕、結構いいことしたかもしれない。 「わかった。じゃあ、都合のいい木曜日を連絡してよ」 『うん、わかった。ありがとう、京田』  みんな幸せなんだなぁ。幸田も、佐竹さんも……ついでを言うと僕も。幸せって、連鎖するんだ。分けるもんじゃなくて、増えていくもんなんだって、そう思えるようになった。  だからといってはなんだけど。人の結婚式なんだけどさ、いつもお世話になってる佐竹さんが結婚するって聞いて。他人の僕が、大事な家族が結婚するみたいで、すごく嬉しかったりする。その幸せの一部に、僕もなんか役に立てないかなぁって。  こんなこと、決して口には出さないけど。出したら、きっと紘太に大爆笑されるか、「かわいいこと言いやがって~」とか言って激しくサれるか、だと思うんだけど。  僕と紘太も、いつかは神様の前で、永遠の愛を誓うことができたらいいなぁ、って思ったんだ。  密かな、願望……ってヤツかな。 「京田くん、ありがとう。式場の件、マリエさんもすごく喜んでて。明後日、2人でホテルに行くことにしたんだよ」  いつもニコニコした佐竹さんが、さらに恥ずかしそうに笑みを浮かべて。朝の挨拶もそこそこに僕に話しかけてきた。その幸せそうな笑顔に僕もつい、笑顔になる。 「よかった。佐竹さんに喜んでもらって。幸田はすごくいいヤツでしっかりしてるから、きっと佐竹さんたちの希望を叶えてくれると思いますよ」  佐竹さんが、なんだか輝いてみえるのは、僕の気のせいかもしれないけど、こっちまで嬉しくなってくる。 「それで、京田くんに頼みたいことがあるんだけど……」 「何ですか? なんでも言ってください!」 「明後日、ちょうど例の取引先に資料を持って説明しにいかなきゃなんないんだけど。京田くん、お願いできないかな?」 「いいですよ! 資料、出来てたら事前にもらえませんか? 頭ん中にいれたいので」 「うん。じゃあ、後でもってくるよ」  佐竹さんの役に立ちたいのは正直な気持ちだった。しかし、安請け合いをして、はたと気付いた。佐竹さんが抱えてる例の取引先の案件って、結構面倒くさいとこじゃなかったっけ? 修正や仕切り直しは当たり前で、あの温和な佐竹さんでさえ、キレそうになるくらい偏屈な担当者がいる、あの厄介な取引先。  気合い入れなきゃなぁ……。折角、佐竹さんがここまで頑張ってきたのを、僕でポシャらせるわけにはいかない。そう思うと、頭がスッと冷たくなって。  上等だ、やってやろうじゃないか! って、気になったんだ。 〝取引先から直帰するから、その後久しぶりにメシでも食いに行こうか?〟 『取引先ってどこ?』  佐竹さんから引き継いだ例の取引先への移動中、紘太にメッセージを送った。すると、秒速で紘太から返事がくる。 〝半蔵門〟 『じゃ、押上に行く?』 〝ビール飲みたいんだろ?〟 『あたり。終わったら連絡して』 〝ラジャー〟 『愛してる、恵介。頑張れよ』  紘太、おまえは。今、僕がどこにいるか知ってて、ワザとこんなメッセージ送ってきてんだろ……。  地下鉄の、人はまばらとはいえ。しがないリーマンが顔を赤くして恥ずかしかってるなんて。気味が悪いって思われるだろ!!  でも、ちょっと緊張がほぐれたかな。  というのも。佐竹さんの案件を引き継いで、アポ電の先の担当者の声音がものすごく不機嫌そうだったんだ。これは、一筋縄じゃいかないな……。正直、面倒くさい感でいっぱいだったんだけど。  紘太はそんなマイナス思考に陥ってる僕に、いつも安心をくれる。  よし! 頑張るぞ!!って気合いをいれた、にもかかわらず。取引先の担当者に正直、面食らった。あんだけ偏屈な態度をとられていた担当者。僕の目の前にいるその人は、四十代くらいで〝妥協を許さない仕事できる臭〟を振りまく男前……風なのに。  めっちゃ喋るし、めっちゃ機嫌いいし、めっちゃ佐竹さん並みにニコニコしている。あの電話先の態度はなんだっだってくらい、かけ離れていて。僕は正直、変なパニックに襲われた。 「担当者の宅間です。はじめまして」  さっきのアポ電とは打って変わって、物腰まで柔らかい。  宅間と名乗ったその人のことを、別人なんじゃ!? とか。二重人格なんじゃないかって疑ってしまうほど。佐竹さんが作った資料を真剣に読んで、宅間は僕の説明をちゃんと聞いている。  調子狂うなぁ、なんて思っていたら。今までのことが何だったんだって思うくらい、スムーズに折り合いがついて。なんと、仮契約まで成立してしまった……! 本当、人生何が起こるか分かんないな。 「今日はありがとうございました。契約書ができましたら、早急に送付いたします」 「そうだなぁ、なるべく早く進めたいな。できたら、持ってきてもらえない?」 「あ、はい。承知しました」 「京田さん、君がね」 「え?」 「無理?」  ゾクッと、一瞬、ゾクッとした。宅間の目が鋭くて、胸に逸物ありそうな……。そんな表情をしていて……僕はお腹が冷たくなるようなヒヤッとした感覚を覚えた。 「あ、はい……大丈夫です。承知しました」 「じゃ、よろしく」  僕の違和感をよそに。宅間はまたニコニコした顔に戻って深々と頭を下げる。  気のせい、かな? ま、いっか。  そんなことを考えながら、僕は宅間に向かって頭を下げた。  佐竹さんの役に立てれば。佐竹さんも、これから結婚式の準備とかで、さらに忙しくなるだろうし。僕が頑張んなきゃ!!  ふと空を見上げると、空に浮かんでいた太陽がなくなって、すっかり月にその役目を交替していた。だんだん、日が落ちるのが早くなってくるなぁ。取引先をでるた僕は、はやる心をおさえてスマホを取り出した。 「紘太? 今終わった。今から押上に向かうよ」 「つーか、恵介飲みすぎだって」 「いいじゃーん。今日はイイコトあったんだからさぁ」  夜景が一望できるビアホール。僕と紘太は、夜景を見ながら色んな種類のビール飲む。いつも一緒にいるのにたくさん話をして。イイコトがあった時は、つい飲みすぎることも自覚している。それが紘太と一緒だったり、雰囲気のいいとこなら、尚更。僕は妙に乱れることも知っている。だって、好きな人と一瞬にいる時くらい、僕だって好き放題したい、わがままになりたい。  紘太に、甘えたい。  紘太に、僕だけを見てもらいたい。  本人は知ってか知らずか、〝総務課の貴公子〟なんてあだ名がついてる紘太を、独占したい。 「紘太……帰ったら、シよ?」 「……なんだよ、甘えてんの?」 「悪いかよ……」 「じゃあ、どうしてほしいか。ちゃんと言えよ」  こういう、紘太も……好き。だから、つい……言うことを聞かざる得なくなってしまうんだ。 「胸、舐めて……」 「それから?」 「キスして……ほしぃ……」 「それで、終わり?」 「……紘太の、イジワル」  酒が入ってないと、こんな大胆になれない。そんなことくらいわかってるし。紘太も、絶対……わかってる。  玄関の扉が閉まると同時に。紘太の首に腕をまわして、体を密着させた僕はキスをする。  ヤバいな……。酔ってるし、こんなに紘太に迫ったら、つい……。胸に宿した密かな願望を、口にしてしまいそうになってしまう。 「……んっ、……こぉた」 「…なに?………恵介?」 「……けっこん……して」 「……は?」 「けっこん……して」  あぁ……言っちゃた。  ま、いっか。紘太だって、酔っぱらいの戯言だと思われてるはず。キスが深く激しくなるにつれ、呼吸も乱れて、紘太の攻めもキツくなっていく。 「……やら、あ……そこ……ら、め」 「恵介……中、めっちゃすごい」  このおかしくなっちゃいそうな激しさも。フッと感じるトロけるような優しさも。紘太の全部が、僕のものになってて。今、ずっとこうしていたいってくらい、気持ちいい。だって、今、すごく幸せなんだよ。  だから、結婚したいって思うのは、当たり前のことなんじゃないかな、って実感するんだ。 「契約書、持ってこいってーっ?!」  感情があまりふれることがない、いつも穏やかな佐竹さんの叫び声がフロアに響き渡る。その豹変ぶりに「はい、そうなんです」って。小さく答えることしか僕はできなかった。 「宅間さん、なんなんだよ……」 「僕も、イマイチよく分かんなくって……。佐竹さん、契約書持って行く時、一緒に行きませんか?」 「……そうだな、一緒に行こうかな」  佐竹さんが、我を忘れるほど叫ぶのも無理はない。あれだけゴネゴネしていた、取引先のガンとなる担当者が。急に手のひらを返したかのようになるなんて、思ってもみなかった。  僕でも叫びたくなるよ、本当。 「そういえば、幸田に会いましたか?」  僕が言った瞬間。表情がなくなっていた佐竹さんの顔が、急に赤らむ。そして、ニコニコと。いつも佐竹さんになった。 「うん! すっごくいい人だったよーっ!! 丁寧で、キレイで!! しかも頼りがいがあって!! 京田くんの友達って感じがした!!」 「よかった!」  佐竹さんの笑顔に、つられて僕も笑ってしまう。やっぱり、佐竹さんは笑顔が似合うよなぁ。こっちまで幸せになる。  それから僕と佐竹さんは、契約書の見直しとあの宅間対策をした。佐竹さんは「京田の説明がよかったのかもなぁ。ありがとうなぁ」って、ニコニコしながらお礼を言ってくれたけど。その笑顔に胸が少し、チクッとした。佐竹さんはすごく面倒見もいい。仕事ひとつとっても丁寧に教えてくれる。佐竹さんの資料はすごくわかりやすいし、説明だって丁寧なんだ。  それは僕が一番よく知ってる。知ってるからこそ。尊敬してやまない先輩が、苦しんでる案件を。まるでトンビに油揚げをさらわれるみたいな感じで、僕が横取りしちゃって……。佐竹さんの役に立てたと思ったのに、素直に喜べなくなってしまったんだ。 「先輩も喜んでた。早速、次の金曜日にドレス選びに行くらしい」  紘太が少し遠い目をして言った。  それもそのはず。始業直後から終業間近まで。総務課にいる佐竹さんの婚約者の、マシンガン・トークかわ止まらなかったらしい。いかに幸田によくしてもらったか、あこがれの帝都ホテルの挙式をいかに希望どおりにするかを。トクトクと語っていたらしい。そんなの、目も遠くなるよな……うん。  でも……僕も、今日は……。いつもより少し、心が疲れていて。少し、心が弱っていて。だから、紘太にギュッと抱きしめてもらいたかったんだ。  ただそれだけでいいんだけど。紘太だって疲れるから、甘えるのもはばかられる……。 「どうした? 恵介。元気ないな」 「……うん、大丈夫。なんでもない」  やだ、なぁ……。紘太の目が見れない、よ。 「恵介の嘘は、バレバレだからなぁ」 「それ、前に内村にも言われた」  僕は、ずるいかもしれない。こんな態度をとれば、紘太が心配するって分かってる。こんなバレバレの嘘をつけば、紘太が察してくれるって分かってる。  ほら……。紘太が僕の体に腕を回して、力強く抱きしめてくれて……安心、する。 「言いたくなきゃ言わなくていいけど、俺に言ったら楽になるかも知んないぜ?」 「……答えを求めてるわけじゃないんだけどさ。僕はいい事をしたって、正しい事をしたって思っていたのに。結果として、相手を傷つけてしまったかもしれなくて、さ」 「それで?」  いつもより甘く優しい声が、僕の頭を包んだ。僕はホッと息を吐いて、目を閉じた。 「過ぎたことはしょうがないし、時間だって取り戻せないことも分かってるけど。申し訳ないというか……加えて、ありがとうなんてお礼まで言われちゃったら、本当、立つ瀬がなくて……。心がモヤっとして、チクッと痛い……」 「佐竹さん、のこと?」  紘太が僕の頬を支えて、その視線を合わせた。  バレてる。何もかも、お見通しだ。せっかく合っていた視線をはずして、僕はそれを返事がわりにした。 「恵介にしては、めずらしく悩んでる」 「うるさいな……。だって、佐竹さんは本当に大事な先輩で、本当に尊敬してる先輩で……正直、佐竹さんに嫌われたくない、んだよ」 「大丈夫。佐竹さんは分かってくれてる。恵介のこと、信頼していたから今回の案件を任せたんじゃないのか? きっと、恵介なら上手いことやってくれるって思ったから、恵介にお願いしたんじゃないのかな、佐竹さんはさ」  それが、紘太の優しさからでた気休めでも。僕はその紘太の言葉がグッと胸にきた。  やばい、泣きそうじゃん。温泉に行ってからこっち。感情の振れ幅が半端なくなっている僕は、めちゃくちゃ涙もろくなってるのかもしれない。 「佐竹さんの、役に立ってるかな? 僕」 「当たり前じゃね? 聞くまでもないよ、そんなこと」  俺様な紘太もいいし、繊細で不器用な紘太も好きだけど。こうして、僕を優しく包んでくれる紘太も、この上なくいいわけで……。やっぱり、紘太が好き過ぎてどハマりしちゃって。  キスをして、服を脱いで。僕は紘太に体を預ける。 「紘太……はげしく、シて」 「……あれ、入れる?」 「うん」 「じゃあ、なんて言うんだ?」  今までトロトロに優しかったのに、すぐに俺様に変わるこの紘太もたまんない。だから、抗えずに。  「こぉたぁ……ふたつ……いれて……」って、甘えてしまうんだよ、僕は。そして、いつも僕じゃないみたいに乱れまくるんだ。 「っん……んぁ……ゃやぁ」 「恵介……めっちゃ、締め付けてる……」  だって、無理なくらい気持ちいい。身も心も紘太に溶かされた僕は。紘太によって引き起こされる快感でおかしくなる。紘太のが奥まで入って、ローターが手前で刺激して……。  だめ……どうにかなりそ……。 『次の木曜、飲みに行こうか?』  ポンとスマホの画面にポップアップされたメッセージ。いつも忙しいであろう幸田からのメッセージに。僕は、顔がニヤけるくらい嬉しくなった。嬉しいなぁ、楽しみだし。でも、僕は今、昨日やたらと紘太と激しくしちゃって、なんとなくぬらぬらして、腰がダルくって。  ニヤけ顔が苦笑いに変化する。ポチポチ返事をしていたら、続けざまに幸田からメッセージが入った。 『今、一瞬に住んでる人も行きたいって言ってるんだけど、いい?』  え!?……そ、それは!! オッケーに決まってるじゃないか!! だって、会いたいよ! 衝撃ギャップの幸田の相手!!  なら、さ。紘太も……一緒に行かないかな……って。淡い期待が、むくむくと胸の中で大きくなる。隠してるつもりはないけど、世間一般からみたら僕たちは男だし、兄弟だし。なかなかカミングアウトでしないでいる。でも、幸田には……。無類のドレス好きって言うことを包み隠さず僕に言ってくれた幸田なら。ちゃんと言いたいな、って思ったんだ。 「京田くん、次の木曜日に契約書を持っていきたいんだけど、大丈夫?」  今このタイミング。絶妙なタイミングで、佐竹さんから声をかけられた。 「はい、大丈夫です。あの……その日、幸田と約束があって。僕、直帰してもいいですか?」 「うん、大丈夫だよ!」  佐竹さんが、ニコニコしながら返事をする。 「本当、京田くんに幸田さんを紹介してもらってたすかっちゃったよー。京田くんは仕事もきちんとこなしてくれるし。京田くんにお願いしてよかったー! 幸田さんによろしく言っといてもらえる?」  佐竹さんの笑顔はいつもと一緒で、優しくて明るくて。あれだけモヤッとしていた僕の心は、なんだかスッと軽くなった。 「ありがとうございます! 僕も佐竹さんにそう言ってもらえて、すごく嬉しいです」  色んな意味で、佐竹さんに背中を押してもらった感じがして。僕は幸田に速攻でメッセージを送った。 〝もちろん! 僕も大事な人を連れて行きたいんだけど、ダメかな?〟  幸田とその大事な人に会える、今日はいい日なんだ。いい日なんだよ? いい日だから何事も好転するはずなのに、微妙に雲行きがあやしい。  この間、あんなにニコニコして当たりもよかった宅間の機嫌が。あからさまに悪い。契約書を目の前に何かしら文句を言いたげで、契約書をめくっては閉じ、めくっては閉じを繰り返す。気まずい……。気まずい雰囲気に色々逆流しさうになる。 「わかりました。ひとまず契約書を預かります」 「承知しました」 「……京田さん。そういえばこの間、野球が好きとか言ってたよね」  不機嫌極まりない宅間の口から、先日、雑談で話した野球の話が出てきて。僕は固まってしまうくらい驚いた。この状況で、その話を振るか!? 今までのその態度! 一体なんなんだよッ!! 「……はい。好きって、言いました」 「ソフトバンクの柳原選手のホームランボールが手に入ったんだ」 「そうなんですね! すごい!」  気まずい雰囲気を打破したい一心から。僕はこの上なく明るい声で返事をした。 「京田さん、柳原選手のファンだったよね」 「前に弟と一緒にヤフードームに見に行ったくらい。それくらい好きなんですよ」 「じゃあ、ちょっととってくるから、待っててくれない? 佐竹さんは、もういいでしょ?」 「え?」  宅間の強引かつ高圧的な物言い。驚いて僕と佐竹さんは顔を見合わせた。そして、いたたまれなさそうに佐竹さんは小さく「そうですね」と返事をした。  ……? この人は、佐竹さんが嫌いなのか?  宅間が佐竹に遠回しに出ていくよう促してる中、佐竹さんは僕にそっ耳打ちをした。 「京田くん、ぼく外で待ってるから。何かあったらちゃんと連絡してね」 「大丈夫です、佐竹さん。僕もすぐ出ますから」  とは、言ったものの。佐竹さんが頑張って作った契約書を破られたりなんかしたら、元も子もないし……。僕は宅間の言うとおり、佐竹さんが出て行って静かになった応接室で宅間を待つことにしたんだ。  なんか……。これといった確証はないんだけど、イヤな予感がする。その予感に押されて、僕はスマホを握りしめた。  やっぱり、佐竹さんと一緒に出ればよかったな……でも! 佐竹さんの契約書が……! なんて、考えすぎて思考がグルグルしているところに、宅間がニヤニヤしながら帰ってきた。手に、野球ボールとお茶を持って。 「そういえば、お茶出すの忘れててすまないね。喉、渇いたでしょ?」  確かに。この部屋はなんだか乾燥しているし、喉もカスカスになっていて声が出しづらい。僕は宅間から差し出されたお茶を手にする。 「あ、すみません。いただきます」 「これ、柳原選手のホームランボール」 「すごいなぁ、手に入れるの大変だったんじゃないですか?」  僕は出されたお茶を流し込みながら、宅間に言った。 「……あげるよ、それ」 「いや! そんなの! 何言ってるんですか!? 大丈夫です!! 見せていただけるだけで充分なんで!!」  あんなに不機嫌だった人がこんなことするなんて、マジでありえない! 僕は慌てて、柳原のホームランボールを宅間に返す。宅間自身、野球が好きらしく野球の雑談をはさみながら、〝あげる、いらない〟の押し問答をしばらくして……。ラチがあかなくて、僕は咄嗟にカバンに手をかけた。 「すみません、今日は学生時代の友達とこの後会うことになってまして……。契約書が整いましたら、ご連絡ください。受け取りに参ります」 「……京田くん、きみ」 「はい? 宅間さん、何か?」 「……君、なんともない?」 「何かありましたか?」 「……いや、別に。また、連絡するから」 「ありがとうございます。よろしくお願いします!」  帰り際に宅間が、僕に「本当に、なんともない? 京田くん」と、しつこく何度も聞いてきて。そんなに、宅間を不審に思いつつも。アヤシイのは僕の方か!? と、不安になって。僕は取引先をあとにしたんだ。すると、僕よりアヤシイ人が、電柱の影に体を隠しきれずにこちらを伺っているのが見えた。 「……佐竹さん、そんなとこで……何してんですか?」 「よかった~! 京田くんが無事に出てきて~。一生出てこないんじゃないかと思ったよ~」  んなこと、あるわけないし。 「……結構、待ちました……よね?」 「うん、一時間くらいかな?」 「そんなに……なんか……。中身のない……話ばっかり」  そう言ったか言わないか。僕は急に眠たくなってしまった。足元が急におぼつかなくなる。佐竹さんと宅間対策をしたり、宅間相手に緊張したりしてたから……疲れてたんだろうか?  これから……幸田とその大事な人と。そして、紘太と飲みに行かなきゃなんないのに……。  ダメじゃんか、僕。なんかさぁ、ふわふわして……あったかくなって………。うわぁ、今すぐ……眠りたぁい。  ……こんな、速攻で眠りたいなんて……。赤ちゃんかよ、僕は。 「京田くん!? 大丈夫!? なんか顔赤いよ!?」 「……眠い……めっちゃ……眠い。紘太に、連絡……」 「京田くん!! ちょっ!! 京田くんっ!!」  よりかかった佐竹さんの体が、なんか妙にふわふわして気持ち良くって。  あぁ、もう。だめ……おやすみなさぁい。

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