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第29話
「タクト、ありがとう。うれしいわ」
嬉しいと言ったのに、彼女の声は全然嬉しそうじゃなくて、どちらかと言うと悲しげだった。
「でも…めんなさい」
声に現れた通りの答えが返ってきた。
「そっか」
もうあの頃には戻れないんだな――と思った。
「ごめんね。私からこんな風に誘ったのに」
「いや、いいんだよ」
俺よりも大人なジョアンにとっては、こんな風に抱き合うことは特別なことじゃないんだろう。
「あのね、ホントは私結婚するの。来月」
「え?」
ジョアンの言葉がしばらく頭の中でこだましていた。どこか意識の遠くの方で聞こえてるようだった。
「…おめでとう。ジョアン」
やっとのことで言えた言葉は、ありきたりな言葉だった。
「ありがとう」
俺は彼女の体から腕を放し、ベッドに起き上がって両手で頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
「バカだなぁ…俺」
「どうして? タクト」
ジョアンが何か言いたそうだった。
「いや、何でもないよ」
「タクト、あなたの大切な人は?」
しびれを切らしたようにジョアンが口を開いた。
「大切な人?」
「彼は、あなたの事、とっても好きよ」
彼って…?
「…」
彼女に何か話したことがあっただろうか? 好きな人の話なんて口にしたことは無かったはずだ。
「今日会った彼でしょ?」
ジョアンが俺の顔を覗き込んだ。
「え、何で?」
「あなた、いつも描いてたじゃない、彼の絵。思うように絵が描けなかった時とか、何か嫌な事があった時に必ず。あの人に会って、すぐにわかったわ」
なんでもない事のようにジョアンが言った。
「そっか」
「そうよ、あなたって結構わかりやすいのよ。自分では気付いていないでしょうけどね」
俺はとても恥かしかった。俺ってそんなにわかりやすいだろうか?
「彼の目がね、私を見て泣き出しそうだったわ。ちょっとイジワルしちゃったけどね。私」
シュンが泣き出しそうだった? でも、いくらジョアンがそう思ってくれても、俺とシュンは…いや、彼女に泣き言をいってもしょうがない。
「彼とは、何でもないんだ。俺の片想いかな」
「そうなの?」
ジョアンが不思議そうに聞いた。
「そうなんだ。もう、良いんだ。彼の為に仕事ができれば――」
俺がそう言うと、ジョアンが何かを悟ったように俺の身体を優しく抱きしめてくれた。それを合図に、俺たちはもう一度抱き合った。
「もう会えないと思うけど、元気でね。タクト」
「ごめん。ずっと言えなかったけど、本当の名前は、タカトって言うんだ」
「知ってたわよ」
「そっか…愛していたよ、ジョアン」
「ありがとう。タカト」
彼女に初めて『愛してる』という言葉を言った。もっと早くに言ってあげていたら良かったのかもしれない。
そして、交替でシャワーを浴びた後、俺は家に帰ることにした。
――眠りたい、何も考えたくない。
明け方の街の中をタクシーに乗って家に向う。疲れきっていた俺は眠気に勝てず、いつの間にか眠りの中に引き込まれていた。
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