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第2話 甘い出会い
外は身を切るような寒さに包まれていた。
クリスマス色に染まった街を足早に通り抜けていく。
コートの前も合わせず腕を通しただけ。首元を冷たい風に晒しながら近くにあるバーを目指した。とにかく酒が欲しかった。一時的な現実逃避だとしても酒を飲めば思考が停止する。強制的に神経を麻痺させたかったのだ。
大通りから一本裏に入った細い路地の一角、地下にそのバーはあった。
五人も入ればいっぱいになる狭いバーは今日もほどよく暗く、BGMのクラシック音楽が大人の雰囲気を演出してくれている。
客はまだ居ない。祥がカウンターに寄るとバーテンダーがスッとおしぼりを出してくれた。それを広げて顔に押し当て、動きを止める。目元を強く抑えてから、フゥッと深く息を吐いた。おしぼりを顔から離し、目を閉じたまま祥は小さな声で言った。
「ラフロイグをハイボールで」
「はい、畏まりました」
酒を用意する音を聞きながら、祥はもう一度溜め息を吐いた。
きっと今頃、製薬会社は大騒ぎだろう。社長がトイレで半裸の女性と倒れているのだ。しかも廃人のように使い物にならない状態で涎を垂らしているのだから当然だ。
明日のトップニュースになるか、腕の良い秘書が上手く情報を統制するか。はたまた週刊誌が面白おかしく書き立てるか。
いずれにせよ会社の評判は落ち、信用もなくなって株価が下落するだろう。決算時には多くの役員達が眉をひそめることになるに違いない。
「……」
激しい嫌悪感が胸一杯に広がる。
アルファが祥を抱き、精液を口にすると廃人になる。
このことに気付いたのは高校生の時だった。
初めてオメガの性質が発現して学校内で発情した時、同級生にレイプされた。アルファとベータに体を犯されたが、祥の精液を口にしたアルファだけが廃人となった。
意味の分からないうわごとを口にしながら焦点の合わない目で宙を見つめ、涎を垂らしながら全裸で座り込んでいる姿を今でも覚えている。いわゆる凡人のベータには影響がなく、祥の口に性器を突っ込んだだけのアルファも影響がなかった。
抵抗するのも構わず無理やり抱いた代償だと言えばそれまでだ。
しかしアルファという優秀な人間を廃人にしたこと。有望な将来を奪い、家族・親族・友人らの希望を無に帰したことは強い罪悪感となって祥を苦しめ続けている。
そして今もまた、ひとりの男を廃人にした。
今日の男は半年ほど前、動物病院に営業に来た。
長く付き合いがあった営業担当者が祥のことを話したのだろう。美人で聡明な獣医師を見たい、と社長自ら営業に来るようになった。最初から食い物にするつもりだったのかもしれない。時折、意味深な台詞を吐いていたが、まさか、本気で襲ってくるとは思わなかった。
一般的にそれなりの社会的地位にあるアルファが強引に関係を迫ってくることはない。だから油断していた。あの社長はなんの準備もなく強引に体を求めてきた。あまり深くことを考えないタイプだったのかもしれない。
状況はどうであれ、一人のアルファを廃人にし、会社が傾く原因を作り、社員達の生活を危うい状態に陥らせたのは祥だ。またひとつ、安眠を許さない心の傷が増えた。
「どうぞ」
バーテンダーがグラスを差し出してきた。それを一気に喉へ流し込む。
スモーキーでヨード様の強いクセのある香りが鼻腔や喉の奥を染めていく。バニラのようでクリームのような甘さもある。胃が強いアルコールに震え、急激な酔いを全身に広げ始める。
「もう一杯……」
祥はグラスをバーテンダーに突き返した。一瞬、迷うような素振りを見せたバーテンダーだったが何も言わずに新しいハイボールを用意した。それも一気にあおる。まさにやけ酒だ。さらにもう一杯、注文した。
「……」
飲みっぷりは一人前だが酒は強くない。
三杯も腹に入れれば酩酊状態だ。これ以上はマズイ、という理性の声を頭の奥で聞きながら、カウンターに金を置いて足で外へ出た。足がふらつく。バーテンダーが何か言っていたが無視して通りへ出た。
冷たい風が頬に触れるのが気持ち良かった。
右へ左へ、千鳥足で通りを歩く。呼吸が速く、かすかな吐き気もある。完全な酔っ払いだ。
自慢では無いが祥は見た目がいい。背が高く、華奢で一見すれば女性誌に出るファッションモデルのようだ。細く切れ長の目が印象的で女豹のようと言われることもある。乱れたストレートの黒髪が顔を隠すさまは、男を誘っているように見えるのかもしれない。
少しずれた細い銀縁のメガネの奥の目が酔いで潤んでいるので、人を魅了する妖しい雰囲気に拍車がかかっていた。
タクシーはどこだろう。拾って帰ろうと考えた時だった。
「なぁ、大丈夫?」
「俺ん家で休めば?」
いかにも遊び人です、という雰囲気の青年二人に声をかけられた。ふらつく体を左右から挟まれ、腕をグイグイと引っ張られる。
「こっち、こっち」
「タクシー乗る?」
青年達は強引だった。
逃げなければ、と思ったけれど酩酊状態ではろくな抵抗ができなかった。ズルズルと引っ張られて歩道の端まで連れて行かれる。マズイと思うが、声も出ないし、力も入らない。二人がアルファだったらまた廃人を作ることになる。祥にとってはそっちの方が辛かった。
「最低……」
自虐的に小声で祥が呟いた時「グエェッ!」と奇妙な声が聞こえた。そして体の束縛が解けた。不思議に思って顔を上げると、まさに見上げるような男が立っていた。
「タマに脳みそがあるサルが美人攫うのは見逃せねぇな。その美人は俺じゃなきゃ釣り合わねぇぜ?」
腹の奥底に響くドスの利いた声が路上にうずくまる青年達にかけられる。祥まで体が震えた。だが、状況を理解する前に肩を抱かれて場を後にすることになった。男は青年達を置き去りにしてさっさと歩き出す。
「ベロベロに酔った状態で裏道歩くのは自殺行為だぞ」
青年達に向けた声とは全く違う優しい声が耳に心地良い。
男の胸に頬を寄せる格好で歩きながら「助かった」と安堵したが、すぐに頭の中で警戒音が鳴った。
男の体臭が脳の奥深くまで染み込んでくる。
甘ったるくて全身を痺れさせる香りで全ての神経が麻痺しそうだ。酔いを深めるような強い香りに全身の力が奪われていく。
「あ……」
カクンと膝が折れた。反射的に男の腕にすがりつく。その瞬間、男の腕に力が込められた。頼りになる腕だった。
「それにしてもお前、クラクラするくらい良い匂いがするな。あ、……お前は……あの、……いや、まぁ、いい」
男はブツブツなにか呟いた後、大股で歩き始めた。
ほとんど自力で歩かず心ここにあらずといった表情で目を閉じる。男の体臭がひどく甘くて陶酔してしまう。このまま眠りに落ちたい。そんな欲求に抗いきれず、男に身を委ねた祥は意識を手放した。
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