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第3話 剛毅な木偶の坊と淫らな仲に

 温かい。  誰かの寝息が聞こえる。  優しく撫でられる感覚と全身を包む甘い香りが心地良い。  だが、激しい頭痛が全てを台無しにする。最悪の二日酔いの朝だ。 「……最低」  飲むんじゃなかった、と思ったものの状態を理解するのにしばらく時間が必要だった。 「あれ……?」  全裸だった。  白くて柔らかい毛布で身を包み、筋骨隆々の男の上腕部に頭を乗せて横たわった姿勢だった。腕枕となっている腕の先にある手の平は祥の腰の辺りを毛布の上から撫でていた。そのおかげで祥の下半身は実に悩ましい状態になっていた。男の反対の手は祥の頭を撫でていて、指に絡めた髪の感触を楽しんでいる。完全に恋人同士が仲睦まじくひとつのベッドで一夜を明かした状態になっていた。 「……まさか!」  ガバッと起き上がった。  頭は痛いが、一応、記憶はある。  製薬会社のパーティに出席し、トイレでアルファの社長を廃人にした後、バーでウイスキーを飲んだ。そして、その後……。 「……おい」  祥は見下ろした男に恐る恐る声をかけ、肩に触れた。  艶やかな茶色の短髪が飾る顔はヨーロッパ系の血が混ざっているように見えた。  彫りが深く、モデル顔というよりは角張っていて顎や頬骨が逞しい感じだ。しかし厳ついというより、男らしさが強調された端正な顔だった。  服を身に着けていない男の体は胸から下が毛布で隠れていた。しかし見える範囲の肩や腕の筋肉は隆々と盛り上がっていてとても逞しい。分厚い胸板も惚れ惚れする。起き上がればきっと美しい逆三角形の体をしているに違いない。 「……おい、おい」  自分とは真反対の男らしい体を見下ろしながら、少しずつ声を大きくする。同時に肩を叩く力も強くした。すると男が少しだけ動いた。どうやら廃人ではなさそうだ。つまり抱かれた訳ではないらしい。ホッとしながら男の肩をさらに数回叩いて起きるのを待った。 「んん? ……おぉ、もう朝か」  男が寝ぼけた声で言った。  茶色の睫毛に飾られた目がゆっくりと開く。じっと顔を見ていたが、突然の男の目の変化にギョッとした。視線が合った瞬間、男の目が真紅の光を宿したのだ。 「……」  息を飲み、わずかに後退ったが男は全く気付いていないようだった。 「おぉ……体はどうだ?」  男の目から紅の光が消えた。見間違いかと思うほど一瞬だった。 「お、おかげ様で最低だ」  動揺を隠しながら短く答えた。  男はハハッと笑い声を上げ、ベッドに横たわったまま優しい笑顔で見上げてくる。黒い目には慈しみの光が宿っていた。 「どんだけ飲んだか知らねぇが、ひどい千鳥足だったぞ。裏路地をフラフラ歩いてたのを覚えてるか?」 「……なんとなく」 「下半身で喋る奴らに絡まれたのは?」 「……」 「覚えてねぇのか。じゃぁ、俺が助けたのも知らなくて襲われたとか思ってる?」 「……いや、襲われたとは思っていない」 「そうか。そりゃ良かった。次からはあんな時間にベロベロに酔ってヤバイ路地を歩くんじゃないぞ」  男は軽い口調で言うと、筋肉に覆われた腕を動かした。その手が腰に触れる。男は触り魔のようだ。 「助けてくれてありがとう」 「どういたしまして。それにしてもお前は強烈に良い匂いがする。腰が抜けそうだ」 「……」 「オメガ、だな?」  男は遠慮もなにも無かった。  匂いで分かるのであれば、男はおそらくアルファだ。  アルファは身体能力も知能も凡人をはるかに凌ぐ優秀な種。そしてオメガに強く惹かれる種だ。だからオメガの体から漏れるフェロモンに気付くことができる。 「オメガだったらなんだ? お前からも酷く甘ったるい匂いがするぞ。……これまで出会ったアルファに、そんな者はいなかった」  努めて平素を装って答えると、男が笑みを浮かべた。嫌みの無い笑みだ。目が奇麗で、見惚れそうな笑みだった。 「へぇ? 俺の体臭そんなにいいか? 初めて言われた。それにしてもオメガってすげぇな。アルファを骨抜きにするって噂は本当だ。一晩中ウズウズして治まんねぇ。もう下半身に全身の血が集まって堪らないの、なんの!」  男は豪快に笑った。 「……」  抱きたくて下半身が暴走しそうだった、と言うわりに男は落ち着いている。なかなか分別のあるアルファらしい。だが、わざわざ性欲のことを言うということは下心があるのだろうか。 「……礼が欲しいのか?」  無表情のまま男の下半身を覆っている毛布を剥ぎ取った。そして美しく割れた腹筋に手を添え、茶色い茂みに顔を近付けてやった。  確かに男の楔は茂みを貫き、自分の腹を突くほど反り返っていて今にも破裂しそうだ。  しかも祥の腕より太く、でかい。全てを口に収めるのは難しい楔を見て一瞬怯んだが、何も言わずに唇を寄せた。愛撫で慰めることはできる。 「え、えぇぇぇえ! いやいやいや、おいおいおいおい!」  祥が男の楔に口付けしようとすると、男が飛び上がった。脱兎のごとくベッドから降り、毛布で体の前を隠しながら口をアグアグと開閉する。 「な、ななななんてことするんだお前は!」 「あ? ……礼が欲しかったんじゃないのか?」  アルファが祥の楔を舐めて精液を飲むと廃人になるが、祥が慰めるだけなら大事には至らない。このことを知って怯えている訳ではないが、男は困惑しきった表情だった。オメガに性的な関係を迫られて断るアルファは珍しい。 「いやいやいやいやいや! いくら朝でアレが元気でも初対面の美人に『ヌいてくれ』なんて言えると思うか?」 「嫌なのか?」 「そりゃぁ、ぜひご相伴にあずかりたい……って、そうじゃない! 貞操の問題だ!」 「相手を裸にして抱き締めて寝るのは貞操という面で問題はないのか?」 「腕枕だけならセーフ!」 「……その線引きが分からない」  ベッドから逃げて毛布で体を隠す巨漢はなんとも滑稽だ。  筋骨隆々で二メートル近い背丈の男なのに、年頃の少女が恥じらうように体を毛布で隠している。それを見ているとこっちが襲たような気分になってしまう。軽く首を傾げ、頭痛に耐えるように目を閉じてから言った。 「あぁ……、助けてくれたことに改めて礼を言う。ありがとう。……私は西福祥(ニシフク ショウ)。動物病院の院長をしている」 「へぇ! 祥ねぇ。動物のお医者さんってやつか! 俺は龍福暖雅(リュウフク ハルガ)。現在、無職。筋トレして就職先を探す準備をしているとこだ」  ハッハッハと男が笑った。 「……学生、なのか?」  とてもそうは見えないが祥は確認するように言った。  アルファならずば抜けた知力と身体能力の持ち主のはずだ。いくらでも就職先はありそうなのにどうして無職なのだろう。 「ん? いや、大学はとっくの昔に卒業した。正真正銘のプー太郎。『顔だけアルファの木偶の坊』って言われてるよ」  再びハッハッハと豪快に笑う暖雅を見て祥はプッと吹き出した。  不思議なくらい緊張せずに済む相手だ。これまで出会ったアルファはすぐに体を求め、性欲処理器のように扱ってきた。  しかし暖雅は違う。オメガも一人の人として扱い、その尊厳も守ってくれる。  そんな暖雅の体を求めて体が疼いた。  鼻腔から脳を直接刺激してくる暖雅の香りに頭痛も忘れそうになる。いつの間にか楔が立ち上がって先端からトロトロと熱い蜜を零していた。それに気付いた祥はハッとして股を閉じ、前を隠すように手で押さえた。その仕草を見た暖雅がコホンと咳払いする。 「あぁ……その、アレだ」  暖雅が毛布で体を隠したままベッドへ戻ってくる。暖雅から漂ってくる芳香が強くなった。四肢の力が抜けていく。これ以上近付くと危ない。本能がそう叫んでいた。 「祥……」  名前を呼ばれただけで背筋に快感が走る。こんなことは初めてだ。距離が縮まれば縮まるほど、体の奥底が熱くなってくる。 「ダ、ダメだ、から……」  近付く暖雅を淫らな目付きで見ながら首を左右に振った。しかし体は正直で、固くなった楔がより強く張り詰める。 「昨夜、会った時からめちゃくちゃイイ匂いがして、俺、ずっと感じっぱなしなんだ。今も、すっげぇ感じてる」 「それでも……ダメ」  口からは拒絶の言葉が出るのに、体は明らかに暖雅を欲していた。  近付いてくるその体にしなだれかかってしまう。頭の上で暖雅の喉が鳴るのが聞こえた。 「初対面でいきなり突っ込むようなアルファは最低だよな」 「……分かっているなら離れろ」 「いやだ。離れたくない」 「おい!」  背後からギュッと抱き締められ、髪と首筋に口付けされた。  祥の首には桜の花びらのような形の痣が三つある。暖雅は何度もそこに口付けを落とした。唇が肌に触れる度、甘い痺れが全身に走る。チュッと音がした後、濡れた舌が祥の白い肌の上を滑った。痣と痣を線で繋ぐように舌が揺れ動く。 「ぁっ……ぁ、ぁぁ」  逞しく熱い体を背中に感じながら、身を硬直させた。口付けの感触が快感に変わって楔を直撃する。今すぐに白濁を放ちそうになってしまう。  抱かれたい――。  そんな思いが強くなる。  しかし祥を抱き、楔から迸る体液がわずかでも口に入ると暖雅は廃人になる。  自分の尊厳を守ってくれるアルファの人生を破壊するのは絶対に嫌だ。しかし、オメガはアルファを強烈に誘惑する。繁殖能力に長けたオメガは優秀な血を残すためにアルファを欲するのだ。  そしてアルファもオメガに惹かれて止まない。一緒に居ると例え生理的嫌悪を感じる者同士でも体は相手を求め、獣のように猛る。暖雅も祥も、それぞれの種の本能に理性が負けそうになっていた。 「悪ぃ……でも止められないんだ。頭がクラクラして理性が飛びそう。いや、もう半分飛んでる。体が動かない……離れられないんだ」 「なにが動かないだ! その馬鹿力が出そうな体、しっかり動かせ!」  叱責する声に艶が混ざってしまう。抵抗の言葉には全く迫力が無かった。 「……抱きてぇ」 「ダメ! 絶対、ダメ……」 「なら……中に入れたりしない。でもイく姿を見せてくれ。俺の腕の中でイく姿を見るだけで我慢する」 「な、なにを!」 「昨夜助けて、今朝まで耐えたご褒美にイく姿を見せてくれ。……欲情した俺を助けると思って」 「……!」 「俺がヤろうとしたら、ぶん殴っていいから」  暖雅の興奮した声が鼓膜を揺する。低くて心臓を揺らすような響き方が堪らない。声だけで体が痺れ、心が震える。  返答に困っていると、背後から伸びてきた手が胸を撫で始めた。  無骨な指が胸の突起を捕らえ、指の腹でクリクリと撫でてくる。左右違うタイミングでツプッと潰された。爪が食い込む痛みがチリッと走るが、それはすぐに快感に変わる。息を飲んだ次の瞬間には優しく捏ねられて甘い息が零れた。 「ぁはぁ……っ、ぁっ、ふっ……んっ」  感じていることを証明する声が漏れる。  その声に誘われるように暖雅の手が臍の方へ滑った。肌の上を動く手の感触さえ快感だ。熱を持って涙を零す楔に指が絡みついた。 「ぁぁっ!」  触れられた瞬間、体がビクンッと跳ねた。  小さな楔は暖雅の手にスッポリと収まった。  ユルユルと撫でられ、全体に自分が零した蜜を塗り広げられる。  筒のように丸められた手が動くたびに強い快感が下肢を包む。少し強めに握られ、根元から先端まで擦られると耐えがたい快楽の波が全身に広がった。  敏感な先端部分を強めに擦られるのが堪えようがないくらい気持ち良くて、トロトロと蜜があふれた。楔はさらに強く張り詰め、止むことの無い快楽の波に嬉し泣きするように濡れた。 「ぁっ! ぁぁっ!」 「気持ちいいだろ?」 「ぃぃ……ぁ、はぁぁ……」  甘い声が止められない。  強烈な性欲を持て余してシーツを強く掴む。こんな刺激じゃ満足できない。そんな風に体は震え、さらなる悦楽を求めて熱を増した。  暖雅の手の動きに合わせて腰が揺れる。ベッドが軋むのを聞きながら楔を何度も暖雅の手に擦り付けた。人の手で自慰にふける背徳感に溺れ、全身に広がる劣情に身を委ねる。 「っ、ぃぃ――。は、ぁっ……、ぁぁぁっ……」  楔から迸る快感に脳が痺れる。  強くなりすぎた快楽から逃げようと体をよじると、逞しい体に抑え込まれた。束縛が喜びに変わる。動きを封じられ、逃げ場のない状態になると快感が何倍にも増した。 「祥……声を、聞かせて」  耳元に低い声が落ちる。  暖雅の情欲に染まった低い声がいやらしい行為を煽ってくる。それに答えるように淫らな言葉が唇を割る。 「ぁぁ……ぁっ! そ、こっ……ぃぃ……気持ち、ぃぃ。もっと……」  ゴツゴツとした指が楔の先端に触れ、捏ね回すように刺激してくるのが堪らない。  延々と続く刺激で下半身が痺れていく。悦楽が強くなれば強くなるほど、体はさらなる強い刺激を欲しがって熱を放った。  もっと強い力で扱いて欲しい。  胸の突起を乱暴に刺激して欲しい。  そして、体の奥深くまで触れて欲しい。  淫靡な願いが頭痛を消し、劣情で脳を染め上げていく。 「――ッん、ふっ!」  甘い吐息が鼻から零れた。  楔に与えられる刺激の波に合わせ、絶頂が一歩ずつ近付いてくる。その足音に心が乱れ、より強く激しい愛を求めて喉が反った。 「ぁ、ぃくっ、……ぁ、ぁぁっ!」  宙に溶けていくような声で言うと腰をうねらせた。  気持ちがいい場所を暖雅の手に押し付けて絶頂を目指す。  胸の突起を絞り上げるように強く掴まれたのが促進剤となり腹の奥がドクンと脈打った。 「さぁ……イけよ」 「ぁぁっ、はぁぁんっ、ぁぁっ!」  扇情的な暖雅の声に喘ぎ声が重なった。楔を扱く手が速くなり、劣情の塊があっという間に膨らみ、弾けた。 「ぁぁぁぁぁぁっ!」  頭痛で割れそうだった頭の芯が痺れ、視界が白く光って弾けた。  強烈な悦楽で意識が跳ね、全身が痙攣するように震えた。暖雅の手の中に情欲の証を放ちながら頬を赤らめて長い余韻に陶酔する。 「ぁ……ぁぁ、ぁぁぁ―!」  達した後も背中に暖雅を感じるだけで興奮してしまう。もっと深い仲になりたい、という思考を祥は必死になって否定した。  悦楽の高みに達した姿を見せた。これで終わりだ。何度も胸の中で自分に言い聞かせ、冷静さを取り戻すべく呼吸を整えようとした。 「祥……」  欲に染まった暖雅の声が頭の上から降ってきた。  心を落ち着かせ、理性の壁を構築しようとする努力を暖雅の声が台無しにする。さらに深い関係を期待しているように聞こえる声だった。尻に濡れた硬いものが触れた。 「お、おい!」  ギョッとした祥は、暖雅の腕の中で激しく身をよじった。渾身の力を込めて暖雅と向かい合うと右手を振り上げる。  パシッ! と乾いた音が部屋に響いた。さらにパシッ、パシッパシパシ! と音は何度も続いた。平手打ちの音だ。 「い、て! いて、いて、いててて!」  暖雅の間の抜けた声がした。  その声を聞いても足に当たる硬いモノが離れない。  それが離れるまで暖雅の頬を右から左から連打し続けた。容赦のない往復ビンタに耐えかねて、暖雅が悲鳴をあげた。ガシッと手首を掴まれ、やっとビンタが止まる。 「いてぇな!」 「お前が変な気を起こすからだ!」 「あ、バレた?」 「それだけ勃っていれば分かる! まだ足に当たってる!」 「アハハハハ。悪ぃ。いやぁ、やっぱ、祥はエロい! 気がふれそうだ。……ちょっとシャワー浴びてくる」  意味深な台詞を吐いてから暖雅がベッドを降りた。  自分の前を両手で隠しながらコソコソとバスルームへ向かう背中が切ない。その背中を複雑な気分で見送っていると、暖雅が振り返った。 「朝飯、ルームサービスにしよう。適当に見繕って頼んでくれ」 「え、あ、あぁ。分かった」  すぐにシャワーの音が聞こえ始めた。 「い、意外に、あっさり退いた……」  安堵の溜め息が漏れた。だが、拍子抜けするほどあっさりと退いた暖雅に驚いてしまう。初対面で強引に体を繋ぐことを本当に快く思ってないようだ。 「め、珍しいヤツ……」  ホッと溜め息を吐いてから周囲を見回した。が、ほとんどぼやけて見えない。それもそのはず。メガネをかけていなかった。 「メガネ……メガネ……」  メガネはベッドの宮に置かれていた。  メガネをかけて再び周囲を見回す。そこは木製の家具をメインに据え、和の雰囲気を取り入れた洋室だった。 「……ホテルだったのか」  ベッドの端へ移動してルームサービスのメニューを手にする。 「意外にメニューが豊富だな」  しばらくメニューを眺めた後、受話器を取った。  とりあえず、クロワッサン、ブリオッシュフレンチトースト、フルーツプレート、オムレツ、トルティージャ、ヨーグルト、トマトジュース、オレンジジュースを注文した。暖雅がどれくらい食べるか分からないが、足りなければ追加注文すればいい。そんな風に考えて適当に注文すると、ベッドを降りてソファの上に置かれていたバスローブで身を包んだ。 「ビジネスホテルではないな」  ルームサービスの内容やバスローブの素材から考えると安いビジネスホテルではなさそうだ。デスクに置かれていた客室案内でホテル名を確認すると、駅からやや離れた位置に建つシティホテルだと分かった。ベッドはクイーンサイズ。ソファがあり、楕円形のテーブルもある。五十平米はある部屋だった。 「……本当にプー太郎なのか?」  プー太郎がこんな部屋を選ぶだろうか。疑問に思ったがアルファは裕福な家がほとんどだ。例え無職のプー太郎でもドアマンがいるようなホテルを選ぶのは不思議ではない。  時計を見ると午前七時過ぎだった。二日酔いにしては早く起きたものだ。テレビを付けて朝のニュースや天気予報を見ていると、暖雅がバスルームから出てきた。バスタオルを腹に巻いた姿だった。 「いやぁ、スッキリしたぁ。祥もどうだ?」 「……そうだな」  伏し目がちに短く答えると、素早く擦れ違ってバスルームに入った。暖雅が近付くと甘い香りで脳がやられる。また変な気を起こしてしまいそうだった。  バスルームは広かった。  脱衣所と風呂場はガラスの扉で仕切られていて、風呂場には大人が足を伸ばしてくつろげる湯船と天井に付けられた固定のシャワーがあった。暖雅が気を利かせたのだろう。湯船には温かな湯が張られていた。  頭からシャワーを浴び、全身を洗った後、湯に浸かった。頭痛がするので長くは浸かっていられなかったが、それでもやはり風呂はいい。心が洗われるというか気分転換になり、心の切り替えができる。 「……」  昨夜は酷い夜で、今朝は驚きの朝だった。  見た目も性格も行動も真逆のアルファに出会った。そして暖雅には淫らに悶える姿を見られてしまった。あまりに多くの事が一度に起こりすぎて目まいがしそうだ。 「はぁ……」  溜め息を漏らしてから出た。  壁を隔てているはずなのに、甘ったるく理性をかき乱すような香りが漂ってくる。暖雅の体臭だ。これまで何人ものアルファに会ったことがあるが初めての経験だった。自分と暖雅の間に何か特別な関係があるのかと思ってしまうくらいだ。 「なんなんだ、あのアルファは……」  こめかみを押さえて頭痛に耐えながら部屋へ戻ると、暖雅が笑顔で迎えてくれた。 「よぉ。ルームサービスが来たぞ。なかなかいい朝食だ」  向かい合う形でテーブルにつき、二人で食事を摂る。  初対面の相手と体を重ね、こんな無防備な姿で朝食を共にするなんて経験がない。なんとも不思議な気持ちでトルティージャにフォークを入れた。 「メガネかけるとエリートな感じがするな。エリート美人だ」 「あぁ」 「ここの飯、うまいな」 「あぁ……」 「飯食ったら帰るか?」 「あぁ」 「仕事?」 「あぁ」 「病院開けるのか?」 「あぁ」  小さなスキレットに乗せられたトルティージャはブロッコリーやジャガイモ、タマネギがしっかり入っていてなかなか美味しかった。生ハムが添えられているのも嬉しい。 暖雅の問いを適当に聞き流しながら黙々と食べる。思い返せば昨夜のパーティでは何も食べていない。しかも昨日は急患が立て続けに来たおかげで昼食も摂っていなかった。腹が減っているのは当然だ。 「俺の話、聞いてる?」 「あぁ」 「……祥は俺とツガイになるか?」 「あぁ」 「マジ?」 「あぁ?」  焼き立てでバターが香るクロワッサンに手を伸ばした所で暖雅の問いに疑問を返した。  なにか聞き流してはいけない言葉が聞こえた気がした。けげんそうな目で暖雅を見上げると、暖雅はフゥッと呆れたように溜め息を吐いた。 「俺の話……テキトーに聞き流していただろ」 「……悪かった」 「全く……真面目そうな雰囲気なのに意外に抜けている所もあるんだな」 「……すまない。あぁ……え、と……、それで……お前はどうするんだ?」 「俺? 今日? うぅん……そうだなぁ。筋トレして、ジムで走って、風呂入った後、仕事探しでもするかなぁ」 「仕事探し……?」 「なかなか見つからねぇんだよ。このデカイ図体がダメなのかなぁ? 採用者に敬遠されるタチらしい。俺って圧迫感ある?」 「あ、圧迫感は……あると思う」  答えながら暖雅の手元に目がいってしまう。  体は大きいが、手先がとても器用だ。人は食事の様子を見ると育ちが分かる。暖雅はフレンチトーストとオムレツを崩す事なく音も立てずにナイフとフォークで食べていた。確実にいい家の者だ。そんなアルファが無職で仕事にありつけないとは不思議な話だ。 「圧迫感かぁ……。いやぁ、何社も断られると流石に自信なくすよ」  暖雅は目に悲しい光を宿してフゥッ、と溜め息を吐いていた。 「……」  祥の胸にズキッと痛みが走った。  人に認められない経験は祥にもある。  大学卒業後、研修医として動物病院に勤めようとしたが全ての動物病院から断られた。就職する時は必ず血液検査が行われ、オメガと分かるとほぼ確実に不採用になる。理由は簡単だ。発情するオメガが居ると職場が乱れるし、使えない期間がある者を雇う者はまずいない。オメガが就職するのは至難の業だから祥は開院した。 「……あの」  暖雅のことが不憫に思えた祥は上目遣いに暖雅を見上げ、ひとつの提案をした。 「実は今、動物病院に動物看護師がいない。前の動物看護師が寿退社して人手が足りないんだ。特別な資格は要らない。私のサポートをしてくれる者を募集中なのだが……動物は嫌いか?」 「え? なに? 俺を雇ってくれるのか!」 「……動物に触れるのが平気で、血や内臓を見ても吐いたり倒れたりしないなら」 「それは大丈夫だ! 雇ってくれるなんてビックリだ! 嬉しいぞ! ありがとう! これで将来が見えた!」  フォークとスプーンを置いた暖雅が握手を求めて手を出してきた。少し迷った後、応じるように手を伸ばす。ガシッと力強く掴まれ、ブンブンと大きく揺らされた。 「じゃぁ、今から『祥先生』って呼ばなきゃならねぇな」 「……飼い主の前では『先生』と呼んでくれると助かる」 「分かった! よろしくな、祥先生!」 「こちらこそ、よろしく」  オメガがアルファを雇うという不思議な展開になった。  なんとも言えない複雑な気分で目を数回瞬いた後、気を取り直してフルーツプレートにフォークを伸ばした。暖雅もフォークを出してくる。 「俺、パイナップルだめなんだ。食ってくれると嬉しい」 「そうなのか。私はイチゴが苦手だ」 「え? マジ?」 「種といえばいいか? 表面の粒々を見るのも苦手だし、舌触りも好きになれない」 「へぇ……俺は酸っぱいのが苦手だ。尻尾が縮こまる気がしてダメだなぁ」 「……尾が映えているなら、ぜひ、見せてもらいたい。生物学的に興味がある」 「ケツは見せてやってもいいが、俺の尻尾はバカにしか見えねぇ尻尾だ」  ハッハッハと笑うと暖雅はフォークにパイナップルを刺して差し出してきた。 「ほら、あ~ん!」 「……」 「うまいか?」 「うまい。私は好きだなぁ」 「え? 俺のこと好き?」 「パイナップルのことだ! 耳と脳を繋ぐ神経を診てやろうか?」 「もう、祥は照れ屋さんだなぁ」  暖雅がハッハッハと笑った。  よく喋るし、よく笑う男だった。それに傲慢な態度は微塵も見られない。なんとも珍しいアルファだ。  朝食を終えた後、着替えてからチェックアウトの手続きをした。  支払いは暖雅が行ったが、その際、ブラックカードが見えたように思う。 「……」  本当に無職なのか疑わしいかった。雇ったものの、働く気があるのだろうか。まぁ、裕福な家で親のすねをかじり続けている状況を打破しようというのなら、ありえなくはない。  得体の知れない男だと思ったが悪いアルファではないし、なによりも雇用関係を結んでしまった。今更どうこう言うことはできなかった。  ホテルから祥の動物病院までタクシーを使った。  暖雅は「後ろは狭くて座れねぇ」とぼやき、座席を限界まで下げた助手席に座った。  白髪の運転手が目を丸くしていたのが印象的だった。だが、暖雅は人当たりがよく、運転手の警戒心もすぐに解けた。運転手が好きだという競馬の話で盛り上がったのだ。  そんな社交的な様子を後部座席から見ながら祥は腹の奥が淫らに疼くのを抑えるのに必死だった。ホテルから動物病院まで約十五分。その間、楔の先端から熱い蜜が溢れ出るのを抑えられなかった。 「雇ったの、失敗だったかも……」  小さな後悔を胸に、早く着けと強く心の中で願うのだった。

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