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第5話 手放せないスパダリ

 暖雅を動物看護師として雇い、診察などの補助をお願いしたが、これが大当たりだった。  さすがは凡人を圧倒する知力のアルファだ。  一度言えば確実に記憶するし、動物看護師向けの実習用図解書を読ませると、これまた一読で暗記した。しかもそれを実践できるからすごい。  年末になると持病を持っている犬や猫の飼い主が薬を求めてやってくる。  中でも、犬は他の動物病院で避けられがちな大型犬が多かった。  体重が40キロを超えるような大型犬は大抵よくしつけられていて大人しいが、予防接種や採血などの際、保定するのが難しい。しかし、大型犬も暖雅にかかれば子犬も同然。暖雅の姿を見ただけで姿勢を正し、全く抵抗する素振りを見せないから驚きだ。移動させるのも診察台に乗せるのも本当に楽だった。  5頭の大型犬を診て午前中の診療を終え、暖雅に礼を言いながら入口を閉めた。次は午後3時から診察だ。 「さて……今日の昼は何を食べる?」  動物病院から自宅へ移動しながら尋ねると、暖雅が眉根を下げた。何か言いたそうな顔だ。「何だ?」と視線で尋ねるとコホンと暖雅が咳払いした。 「俺がここに雇われてからずっと毎日3食出前だよな」 「それがなにか?」 「祥は自分で作らないのか?」 「……作らない」  暖雅が「やっぱり」といった顔で見下ろしてくる。 「年中出前やら外食って、体によくないぞ」 「別に年中、出前しか取っていない訳じゃない。夏と冬に一ヶ月ずつ従路に暇を出す間だけだ」 「従路って誰? 暇を出す?」 「……執事だ。父の世話をしていた執事の従路がついてくれている」  白衣を脱いでソファに腰を下ろすと、隣に暖雅が座った。 「執事? すげぇなぁ。祥の親父さんって何の仕事をしているんだ?」 「父は外交官だ。私が小さい頃は日本に居て、大きな屋敷で3人の執事を置いていたよ。今はヨーロッパを点々としている。今はドイツの大使館に居るとか言っていたな」 「ほぉ! 外交官! そりゃぁ、すごいや!」 「父がアルファで母がオメガ。父はアルファの男児が欲しかったようだが、男の私はオメガ。妹がアルファでね。父は残念がっていたよ」 「へぇ……。で、執事が一から十までやってくれるから、祥はなにもしなくても不自由ないってことか」 「……従路ももうすぐ70歳になる。いい加減、自立しないといけない、と思ってはいるが。なかなか、な」  仕事をしながら家事も覚えていくのは正直、億劫だった。頼れる人がいるとどうしても頼ってしまうものだ。苦笑していると暖雅がニカッと笑った。 「しばらく執事さんが戻ってこないなら、俺が飯を作ろう。こう見えても、掃除洗濯料理は完璧なんだ」  腕まくりしながら暖雅が言ったが、その期待の答えることさえできない現実があった。 「悪い……。作ると言っても冷蔵庫には何もない。そもそも、なにを買えばいいのかさえ分からないんだ」 「そっか。ハハッ! 正に箱入り娘だな。大事にされている娘を、まず胃と身の回りの世話とアッチで落として……」  笑みを絶やさない暖雅だが、その呟きの内容が物騒だ。ジロリと横目で見ながらしっかり釘を刺しておく。 「……落とす、とはどういう意味だ?」 「あ、いや、なんでもない! ほれ、一緒にスーパーへ行こう。食べたい物をいくつか言ってくれれば適当に材料を買う。あぁ、調味料はあるか?」  暖雅の問いに答えられなくてキッチンを指差した。  対面式のシステムキッチンは整然と片付けられていた。手入れが行き届き、水滴ひとつ落ちていない。  暖雅があちこち引き出しを開けて中を確認していた。二台ある大型の冷蔵庫は一台はほぼ空。もう一台はワインや日本酒など、嗜好品が入っていた。 「よし。じゃぁ、行くか。俺の車で行く?」  コクッとうなずき、後に続く。  祥も免許は持っているし、往診の時は自分で運転して行く。だが、正直、運転は好きではない。一方、暖雅は車は勿論、運転も好きらしく、自分の車をこの動物病院へ持って来ていた。  メタリックなシルバーのボディは傷ひとつなく、美しい光沢を放っている。どこの無職のプー太郎がレクサスに乗るだろう。その車を見るたびに何者なのか問い正したくなる。 「じゃぁ、行くか」  買う物のリストが頭の中にあるのか、特に準備もなく暖雅は車を出した。  助手席に座りながら自分の車とは全く違う座り心地に閉口する。車に詳しくないが、この車が安いものでないことくらいは分かる。初めて車を見た時、チラッと値段を聞いたが、暖雅は言葉を濁したというか、値段にあまり興味はないようで曖昧な答えだった。 (無職で顔だけアルファの木偶の坊が数百万の車を運転か)  祥も父が父なのでお金に困ったことはない。  しかし暖雅はそのはるか上を行きそうだ。自分が払う給料が端金のように思われないだろうか。そんな不安が脳裏をよぎる。  無言で外の景色を眺めていると暖雅がクラシック音楽をかけた。複数のスピーカーを絶妙な位置に配置しているようで、車全体から心地よい音楽が聞こえてくる。 「ハイドン、弦楽四重奏曲第七十七番、皇帝」 「そう! ドイツやオーストリア国家の元になったといわれてるな。奇麗で落ち着く良い曲だろ?」 「あぁ……」 「生演奏を聴くのが好きなんだ。まぁ、そんな機会、めったにないけどな。できるだけいい音で聞きたくてなぁ。ディーラーに無理言ってスピーカーをあちこちに配置してもらった。祥にも楽しんでもらえると嬉しい」  木偶の坊と言われるわりに趣味は良い。  まるでコンサートホールで聞いているような音の響きが耳に心地良い。音響にもこだわりがあるのだろう。聞き惚れてしまう音だ。  クラシック音楽を聞きながらスーパーへ行った暖雅は、驚くほど大量に買い込んだ。  米や肉、魚、飲み物、野菜、調味料など。  どれをどのように組み合わせて使うのかさっぱり見当が付かない。使い切れるのか? と視線で尋ねてしまうが、暖雅は全く気にした様子がない。小麦粉をキロ単位で買うのを見た時には流石に口を挟んでしまった。 「ホームベーカリーがあっただろう? せっかくだから、朝は焼きたてのパンを食べよう。電気鍋もあったからスープも簡単に作れる。野菜をたくさん食べられるな。肉や魚はできれば新鮮なものを使いたいが、忙しいとまめに買いに行くのは難しい。まとめて買って下味を付けて冷凍だな」 「そ、そうなのか?」  口を挟む余地はなかった。  隣を歩きながら次々と買い物カゴに商品を入れて行く様子をただ、見守っていた。  帰宅すると、さっそく暖雅がキッチンに立った。  買った材料を次々と冷蔵庫に入れ、まな板や包丁、ザル、皿などを慣れた様子で並べて昼食の準備にかかる。  大きな暖雅の手が優雅に踊り、次々と材料をカットして鍋に入れていく。  細やかな動きが滑らかなのは日常的に家事をやっている証だ。良い香りが漂い始めたリビングで、じっと暖雅を見つめながらポツリと呟いた。 「そういうことって、普通にできるものか?」 「そうだな。俺も大学までは何もできなかった。でも、やり始めたら意外に面白くて、すぐできるようになったなぁ」 「私はどこになにがあるかも知らないし、どう使うのかもサッパリだ。その……缶詰を開ける道具も初めて見た」 「これか? 缶の縁を挟んでクルクル回せば開くから簡単だぞ? 力要らねぇし、家飲みの時の缶つまって便利だし、開け方覚えておくとどんな缶でも開けられる」  家飲み? 缶つま? と首を傾げていると手招きされた。  頭の上に疑問符を乗せたままキッチンに立つ。すると暖雅が背後に立って二人羽織の要領で缶の開け方を教えてくれた。 「こうやって左手でオープナーのハンドルを持って、右手でクルクル回すんだ」 「……こうか?」 「そうそう」  生まれて初めて自分で缶を開けた。  暖雅が言うとおり軽い力で缶が開いた。これなら執事の従路が居ない時間に小腹が空いても問題ない。祥がホタテの貝柱の缶を開けると暖雅がニッと笑った。 「手伝いサンキュー。ひとつできることが増えたな。夜食も食い放題だ」 「そうだな……」  祥がキッチンを離れると暖雅が忙しなく右に左に動いて料理を仕上げていく。  それをぼんやりと見ていたが、ふ、と思い立ってソファから立ち上がった。そしてアップライトピアノの前に座る。 「うお! ピアノの生演奏!」 「……これくらいしかできないが」  謙遜の言葉を口にしたが、実は15年以上ピアノを弾いているし、弾ける曲はかなり多い。弾き始めるとすぐに暖雅が反応した。 「ハイドン、ソナタ 変ホ長調か」 「あぁ……」  さすが、生演奏が好きというだけある。弾く曲のタイトルを全て当ててくれた。  暖雅は演奏に合わせてハミングしながら、手際よく料理を仕上げていく。 「ほい、完成だ」  一人用の土鍋に入った鍋焼きうどんが完成した。グツグツと煮立ち、白い湯気があがっている。ちょうど曲を弾き終えた時に緑茶と一緒にテーブルに並べられた。 「……いただきます」  暖雅に促されて箸を取った。  エビの天ぷらと牛肉、そしてホタテの貝柱が入った鍋焼きうどんだ。飾り切りされたシイタケや純白の長ネギ、そして鮮やかな緑が美しいコマツナも入っている。 「どうだ? 味付け、口に合うか?」 「……うまい。すごいなぁ」 「良かった! 食ったらデザートもある」 「デザート?」 「缶詰を使ったフルーツポンチ。アイスを添えよう。寒い冬に温かい部屋で食うアイスは最高だろ!」  急須からお茶を湯飲みに注いでから暖雅も食べ始めた。  一口食べ、しっかり味わってから「うん!」と頷く。納得の出来だったようだ。 「夕食は天ぷらにしよう。塩を何種類か買ったから、塩を変えながら食べてみないか?」 「……あぁ」 「魚とマイタケを天ぷらのメインに。魚のアラで取った出汁でお吸い物もな。飯は……炊き込みにするか、白飯にしてかき揚げを乗せるか……どっちがいい?」 「かき揚げを乗せる天丼の方がいい」 「よし、決まり! 何を食べたいか言ってもらえると助かるんだよな」  他愛ない会話をしながら食事をする。そんな時間がすごく嬉しかった。しかも食事は自分のために手作りしてくれたものだ。執事なら仕事としてそれをするが、そういうこと抜きで自分のために労を惜しまずに居てくれる。そんな暖雅の存在が嬉しかった。  夕食の献立を話しながら昼食を済ませると、デザートを食べている間に暖雅が洗濯物に取りかかった。  動物病院を開ける午後3時までに掃除と洗濯が終わり、ワイシャツのアイロンがけまで済ませてくれた。手際の良さときめ細やかな働きに呆然と見つめることしかできなかった。 「……なんだ?」 「……いや、その……、ありがとう」 「これぐらいで礼を言われるなんて、初めてだ」 「いや、本当にすごいな、と思って……」 「照れるなぁ」  謙遜する暖雅をよそに、浴室乾燥で乾かされている服やタオルを見た。今、この瞬間まで浴室で服を乾かすことができること自体知らなかった。 「……ボーナスがいるな」  ポツリと呟いただけだったが、暖雅が破顔した。 「家事やったらボーナスくれる?」 「家事だって労働だ。報酬を出さないと労力の搾取になる」 「じゃぁ……ひとつ、お願いがある」 「なんだ?」 「今、ソファで寝てるけど……祥のベッドで一緒に寝たい」 「!」  返事に窮してしまった。  動物病院と自宅のリビングの間に客間があって、そこを暖雅の部屋に宛がった。  しかし暖雅は「そんなのはもったいない」と言ってソファに寝転がっている。何度言ってもきかないから諦めていたのだが、まさか、一緒に寝ることを要求してくるとは思わなかった。 「一緒に寝るのはダメだ」 「なぜ?」 「それは……」 「俺のことを意識して寝られなくなる?」 「……そ、そうじゃなくて」 「意識してくれるなんて嬉しいなぁ。祥さえよければ、めっちゃ近くでお互いを意識しながら朝から朝まで楽しいあ~んなことや、こ~んなことをしても……」 「ダメだ」 「えぇ~」  大柄な暖雅が小さくなったように見えた。本気で残念がっているようだ。子どもが心底ガッカリして気持ちのやり場に困っているような様子に、なにか酷いことをした気分になってしまう。 「あ、あの……い、一緒に寝るだけなら……」 「え? まじ?」 「そ、その……セックスはしない。例え、朝まで眠れないくらい疼いてもダメだ」 「わ、分かった! やったぁ! 実はソファは狭いし、ちょっと朝方寒くて。これでゆっくり寝られる!」 「……」  返す言葉が見つからない。  やはり、強引に客間を使わせるべきだった。あの巨体がソファに収まる訳が無いのだ。祥がひとりで反省していると暖雅の視線が泳いだ。 「?」  暖雅の視線の先には猫がいた。 「あぁ、あれはスピカ。私が飼っている猫だ」  スピカは祥の部屋がお気に入りで、ほとんど出て来ない。大人しくて存在感があまりないから暖雅も今まで気付かなかったようだ。 「スピカ……猫って……尾が……」  暖雅の目が丸くなるのも仕方がない。スピカは尾が2本ある猫だった。暖雅がいても気にすることはなく、祥の自室とリビングの境に座って毛繕いを始める。 「メインクーンのスピカ。2本の尾は生まれつきの奇形らしいんだ。どうやら尾の根元の細胞が異常に分裂しているようでな。毛で隠れているが、3本目と4本目も出てきている」 「4本?」 「このままいくと5本、6本と増えていくかもしれん。不思議なもので、骨も毛も奇麗に生えるんだ。スピカは5年前に動物病院の前に置き去りにされていた猫だ。糞尿にまみれて鼻水も目やにも酷く、尾は歪な2本。安楽死と書かれた紙と一緒に段ボール箱に入っていたんだよ。あまりに哀れでね」  治療を重ね、毎日のボディケアも怠らなかったところ、大型猫メインクーンの最大の魅力、ライオンのたてがみのように豊かで美しい胸毛を持つ堂々とした猫になった。尾は2本あるが、それぞれが長く優美な毛に覆われていて妖しい魅力を放っている。 「捨て猫かぁ……いやぁ、美人! 飼い主に似ると言うが、本当に美人だな!」 「……」  それから猫の話題になったが「一緒に寝る」という話が祥の頭から離れなかった。祥のベッドはシングルサイズだ。ロングサイズで背の高い人でも足が出る心配がないものだが、暖雅はどうだろう。 (……どうしたものか)  内心、困惑しながら午後の往診に出た。  暖雅は夕食の準備をする、と言って遅れて動物病院の方へ来た。  薬品庫のチェックを頼んだのだが、チェックだけでなく追加が必要な薬のリストアップもしてくれた。その速度が半端なく速い。祥の倍以上のスピードでチェックするから驚きだ。 (とんでもない素人を雇ったな)  暖雅の背中を見ながら心の中で感嘆した。とてもありがたい存在であり、手放したくない人材だ。  ずっと側にいて欲しい。  そんな思いを胸に秘め、祥は午後一番の来院者を診察室へ招き入れた。

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