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第8話 幸せな年越し

 暖雅と初詣の約束をした後は急患もなく、静かな日が過ぎて大晦日を迎えた。  毎年取り寄せているおせち料理も届き、中を見た暖雅は感嘆の溜め息を吐いた。 「伊勢エビにアワビ、ウニまで入ってる。流石にこのレベルを作る自信はねぇ。まだまだ精進しねぇとな」 「200年以上の歴史を持つ旅館の女将が作るおせちに対抗するのか?」 「目標は高ければ高いほど努力し甲斐がある! あぁ、努力と言えば……」  リビングで寛いでいると、暖雅がハッとしたように手を打ってガバリとうつ伏せになった。リビングの床の上で筋トレを始める。 「……毎日よくやるな」 「短時間でも負荷をかけてやれば筋肉は育つ! 努力すれば努力しただけ育ってくれてすぐに成果が見えるからいいぞ」  手は肩幅よりやや広め。  胸を床に触れる寸前までおろすという腕立て伏せを繰り返す。ゆっくり体をおろして速くあげる、という動作を50回やってから、暖雅はフハァと息を吐いた。 「祥、俺の背中に乗ってくれないか?」 「乗る?」 「あぁ、負荷をかけたいんだ」 「……」  本気か? と目で暖雅に尋ねた後、恐る恐る暖雅の背中に乗った。  暖雅の背中を跨いで座る。体重をかけると暖雅が肩越しに視線を向けてきた。 「落ちるなよ? いくぞ」 「……」  暖雅がさっきとは全く違うスピードで腕立て伏せをし始めた。  突然の揺れに慌てたが、暖雅の背中に手をついて体を支える。指先に暖雅の筋肉の動きが伝わってきた。 「……すごい」  ハイスピードの腕立て伏せは30秒続いた。 「うはぁ! キツイ! でも、効く!」 「……キツイのが嬉しいのか?」 「いいに決まってるだろ! 体中の筋肉がビクビク震えて喜んでるんだぞ!」 「……ドMだな」  休憩を挟みながら約5分間、腕立て伏せを続けた後、今度は腹筋を始めた。その後にスクワット。そして最後に背筋を鍛える筋トレを行う。 「……」  途中まで見つめていたが、暖雅から香ってくる汗の匂いに意識を奪われそうで視線を外した。  暖雅が放つ甘い香りには少し慣れて、欲情する体をなんとか抑えられるようになった。しかし、この汗の匂いはダメだった。甘い香りに混じる汗の匂いはより強く誘惑し、意識を奪おうとしてくる。  意識を反らせるために英語の論文を読んでいると、筋トレを終えた暖雅が「スッキリしたぁ! いい汗かいた!」なんて言いながら浴室へ入っていった。匂いの元が離れると気持ちを落ち着けやすくなる。 「全く……困ったアルファだ」  困るのは自分の体だが、暖雅が悪い、とでもいうように呟いた。  真っ昼間から欲情して楔をおっ立てているなんて情けないにもほどがある。今日は夕方から2人で外出だ。夕食を摂り、日付が変わる前に年越しそばを食べて初詣に向かうのだ。今、こんなことで欲情していたら、夜はどうなってしまうのか。不安しかない。 「オメガはオメガでも普通のオメガだったら良かったのに」  どうしようもないことを呟いてから、祥は再び論文に視線を落とした。  日が傾き始めて気温がグッと下がってきた頃、祥は暖雅と一緒に出掛けた。  まず、車で街中まで行き、駐車場に車を置いて喧噪の中へ足を向けた。  大晦日の街には人が溢れていた。  祥は暖雅に抱かれて歩いた。そうでないと、あっという間にはぐれてしまいそうだった。 「ちょっと早いがなにか食うか?」 「そうだな……この人混みから抜け出したい」 「分かった。もう少し歩こう。近くに寿司屋があるんだ」  知った道なのか暖雅は迷うことなく進んだ。  全て暖雅任せで黙って付いて行く。  正直、人混みは苦手だ。擦れ違う人の中にアルファが居て、自分の方に注意を向けてくるのではないか、という不安が常に頭から離れない。これは高校でオメガの体質が発現して以降、ずっとだ。今日は安心していいはずなのだが、やはり長年の癖は簡単には直らない。 「あ、ここだ。ここ」  人が大勢居る通りから一本裏に入った後、少し歩いてから別の路地に入った所で暖雅が言った。店だ、と言われないと気付かないような地味な扉の前で足を止める。 「……」  店内には2人の客がいるだけで、静かな空気が漂っていた。  カウンターの向こうに立つ大将が暖雅を見て頭をさげた。暖雅は軽く手を上げて応え、慣れた様子で中に入る。祥は体を寄せたまま無言で続いた。 「いらっしゃい。ご無沙汰ですね」 「そうだな。適当に2人前握ってくれ。あ、祥。苦手なネタあるか?」 「……どちらかと言えば脂が少なめの方が好きだ」 「だって。頼むわ」  暖雅は大将と顔馴染みのようだ。  祥はじっと暖雅の顔を見た。 「ん? なにか顔に付いてるか?」 「……顔だけアルファの木偶の坊が出入りするにしては、なかなかの店だと思うぞ」 「いや、そりゃ、まぁ……その。アレだ。親父の関係だ。俺のツテじゃねぇ」  言葉を濁す暖雅の顔には「聞かないでくれ」と書かれていた。  それ以上は突っ込まず、大将を見た。もう隠居暮らしをしていてもおかしくない年齢に見える。しかし、年の功だろうか。その手付きは見事だ。  手の熱がネタに伝わらないよう配慮しながら、均整の取れた握りを並べていく。ネタは美しい艶を放っていた。 「どうぞ。追加は自由に仰ってください」  10貫の寿司が出された。  ヒラメ、イカ、カンパチ、サバ、マグロ、ウニ、アワビ、トリカイ、イクラ、タマゴといったネタが並ぶ。暖雅は手で取って一口で食べている。その様子をチラリと横目で見てから箸を取った。 「日本酒を出しましょうか?」 「ん~、もらおう」 「お連れ様は?」 「一緒にもらう。でも少しだけな」  暖雅が大将と言葉を交わし、眉根を下げて言った。初めて会った日の酩酊状態を思い出しているのかもしれない。 「久保田の千寿があります。柔らかい口当たりですから寿司に合うでしょう」 「お燗で頼むわ」 「わかりました」  大将は口数が少ないが、さりげなく酒や寿司を勧めてくれる人だった。  暖雅は気さくに声をかけ、勧められるものを迷わず頼む。  おかげで気を楽にして食べることができた。日本酒の力も手伝ったのだろう。食べ終わった頃には良い気分だった。 「祥。そのくらいにしておけ。目がトロンとしてるぞ」 「もう一杯もらいたい……飲みやすくて美味しいな」  フフッと笑いながらもう一本お燗を注文しようとしたが、苦笑する暖雅に止められた。唇を尖らせたが聞き入れてもらえず、会計となってしまった。 「先に出て、冷たい風に当たってる」  不満を零しつつも上機嫌で先に外へ出た。  良い気分だった。  アルコールは適量なら心をリラックスさせてくれるし、気を大きくしてくれる。普段、小さなことにも警戒を怠らない身にとっては、いいリラックス効果を与えてくれるものだ。  今日はアルファの大男が一緒だ。怖いものはないように思えた。  しかし、現実は厳しかった。 「ねぇ、独り?」 「時間ある? 一緒に年越ししない?」  裏路地に独りで立っている祥には虫が寄りつきやすいのだろうか。  ガムを噛んだり、タバコを咥えている青年3人組が近付いて来た。  ラフな格好でうろついている所を見ると、近くに家があるのかもしれない。ニヤニヤ笑っている顔から察するに、青年達は祥に対してふしだらな下心を抱いているようだった。 「折角の年越しだよ? 楽しく過ごそうぜ」 「元号が変わる前の最後の年越しだし、特別な思い出作ってもよくない?」  段々と露骨に誘ってくる青年達。  祥は一歩後ろにさがり、距離を取ろうとした。しかしすぐに間合いを詰められる。 「寒いの? 顔赤いよ」 「酒に酔ってんじゃない? いいねぇ。もう一軒行く?」  青年達は無遠慮に体に触ってくる。その手を振り払おうとした時、背後からグイッと肩を掴まれた。 「人の連れに手ぇ出してんじゃねぇよ」  低くドスの利いた声がした。  暖雅だ。  突然、現れた巨漢に驚いて青年達はあっという間に消え去った。 「全く! 油断も隙もねぇな!」 「ん? 私が悪いのか?」 「酒を飲んだお前は歩く変態吸引器だ。会った時もそうだっただろう? 俺の側から離れるな」 「フフフ。なら、私の体をその手から離すな」 「……酔ってるな?」 「悪いか?」 「……メガネ外すなよ」  メガネを外した時の祥の痴態を思い浮かべているのか。  目を泳がせながら意味深な声を出した暖雅が歩き出した。その腕に身を任せ、ほろ酔い気分で夜風を楽しむ。  そのまま歩いてイルミネーションを愛でた後、プールバーに入ってビリヤードを楽しんだ。暖雅は随分とやりこんでいるらしく、かなりうまかった。  キューを持つ姿も、構える姿も、狙っている時の顔も様になっていた。  筋肉質な腕を使って、繊細な技を見せる姿に惚れ惚れする。  全くの初心者の祥も気分良く楽しめるよう、配慮してくれるのも嬉しい。  ウイスキーを楽しみながらゲームを楽しんだ後、再び夜の街に出た。  日付が変わるまであと1時間というところで蕎麦屋に入り、年越しそばを食べた。大きなエビ天が乗っていたが、とても食べやすく、胃に堪えるような感じもなかった。  さぁ、あとは年越しだ。  身も心も満たされた状態で暖雅の胸に寄りかかり、厄除け大師に向かう道を進んだ。  屋台が建ち並ぶ商店街を進むと、参道の手前で行列にぶちあたった。  除夜の鐘を聞きながら初詣をしようという人はかなり多いようだ。  屋台で買ったステーキ串を2人でかじりながら、祥は初めての経験に頬を紅潮させていた。 「随分手前で止まったなぁ。もう少し早く来るべきだった」 「そうなのか?」 「多分、境内に入るまで30分くらいかかる」 「へぇ……」 「まぁ、正月三が日の昼間は3時間並んで参拝するのが普通だから、マシな方だ」 「3時間も並ぶのか!」 「そんなもんだぞ?」  ふぅん、と頷くものの、信じられないことだった。それだけ年始に強い思いを寄せる人が多いということか。  道幅いっぱいの行列はノロノロと前に進む。  交通整理をする警察官の声なども聞こえてきた。  除夜の鐘が冷たい夜空に響き渡っていて、なんとも風情がある。  食べ終えた串をどうするか迷いながら「一年の目標はどうする」とか「おみくじはひくのか」とか暖雅とたわいない会話を続けていた。  並んでいる途中、行列のあちらこちらからカウントダウンする声が起こり「ハッピーニューイヤー!」という叫び声が空に響いた。年が明けたのだ。  暖雅の言葉通り、大体30分並んで境内に入り、ご本尊の前で暫く待ってから参拝した。  奥の方で護摩木が焚かれていて導師がお経を上げていた。  周囲には頭を垂れた人達が大勢いる。厄払いに来た人達だ。  祥は暖雅と一緒に賽銭を投げて手を合わせた。  何を祈ろうか。  いくつもの思いが頭をよぎったが「大切な人と過ごす時間が長く続きますように」と祈った。大切な人が誰か。あえて名前は口にしない。礼を終えると、次の参拝者が押し寄せてくる前にそそくさとその場を後にする。 「すごい人だな……」 「夜中でこれだ。夜が明けたら、すごいなんてもんじゃないぞ」  暖雅に抱かれ、今度はおみくじの列にならんで30分ほど待った。  祥は吉、暖雅は大吉だった。 「やったぜ。今年の俺は何でも成功するぞ」 「それはいい。自分からどんどん前へ出て行く年だな」 「あぁ!」  嬉しそうな暖雅に自分のくじを見せてから細長く結んだ。こんなくじ引きなんて何年ぶりだろう。全てが新鮮だった。 「さぁて、帰るか。そばで温めた体が冷えちまったな」 「参道から離れればタクシーを拾えるかな」 「そうだなぁ。あ、でも、俺の車があるんだった」 「どうする?」 「代行を頼もう。前に世話になったところがある」  暖雅が代行会社に連絡する。やってきた代行は富裕層を相手にリムジンを運転していそうな者だった。明らかに無職の男が利用するサービスではない。半ば呆れつつも何も言わずに暖雅に付き従った。  動物病院に戻ったのは草木も眠る丑三つ時だった。2人で抱き合ったまま部屋へ入り、そのまま一緒にベッドに倒れ込んだ。 「あけましておめでとう、祥」 「ハッピーニューイヤーだな、暖雅」  言い合った後、二人はお互いの温もりを感じながら目を閉じた。  そのベッドの脇で、尾が割れた猫のスピカと、スピカを母親のように慕う4匹の子猫が同じ毛布にくるまってスヤスヤと寝息を立てていた。  静かだが幸せな年越しだった。

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