9 / 15

第9話 無防備な発情

 辛いと言うほどではない。  重たい頭と微妙な胸焼けに不快な気分になりながら目を覚ました。ゆっくり起き上がり、軽く伸びをする。 「ほら、水」 「ん……ありがとう」  受け取ったミネラルウォーターを一気に半分ほど飲むと、はぁっと息を吐いた。  冷たい水が体に染み渡る。今日は水分を多目に摂る必要がありそうだ。  ペットボトルを脇に置くと、ギシッとベッドが軋んだ。背後から抱き締められる。無骨で大きな手が首筋や鎖骨、胸元をゆっくりと撫で回してくる。さらに髪に口付けが落とされた。 「おはよう、祥」 「ん……おは、よ……」  シーツに皺を刻みながら身をよじると、暖雅の手が楔に絡みついた。朝の生理現象で硬くなっている楔が大きな手の中で震える。  暖雅は早起きだ。朝食の準備を済ませてから起こしにくる。  起こし方も大人で、全身に優しい愛撫を落とし、絶頂に導く方法で起こしてくれる。 「あっ! ……ダ、メッ!」 「ダメじゃない。イイって言うんだ」 「ぁ、ぃゃっ……ぁ、ぁぁぁっ」  胸の突起を強く捻られたり、優しく捏ねられるのが堪らない。  ダラダラと鈴口から溢れる蜜で濡れそぼった無骨な手が小さな楔の全体を強く弱く擦り続ける。楔から全身に向けて広がる快感に祥は四肢を強ばらせた。  もうすぐだ。  指が楔の先端を集中的に素早く擦り続けると視界が白んで絶頂が訪れる。その追い詰められる瞬間が堪らなく好きだった。  が――。  不意に暖雅の手が止まった。一瞬にして快感が消える。どうして、と振り返ろうとした祥の耳に電話の音が聞こえた。時間外診療専用の電話が鳴っていた。 「……」  色々な思いが籠もった渋い顔で電話に近付いた。  受話器を取ると、キンキン響く中年と思しき女の声が聞こえた。 「ちょっとぉ! 開けてよ! 急患なのよ!」  どうやら相手は動物病院の入口に立って電話をかけてきているらしい。普通は電話で確認してから来院するものだが仕方がない。 「急患だ……」  受話器を置くと祥はメガネをかけ、手早くスクラブを身に付けて白衣をバサリと羽織った。暖雅を振り返ることなく足早に動物病院へ向かう。 「朝食を先に食っていてくれ。手が必要なら内線で呼ぶ」  一瞬にして獣医師の顔になる。  暖雅が寂しそうな表情でベッドの上から手を振っていたが振り返らない。  メガネを外した祥はオメガの性質を惜しげ無く晒すが、メガネをかけると一瞬でそれが消える。さらに白衣を羽織るとその目には動物達しか映らない。 「全く……ほんと、こっちを振り回してくれるよなぁ」  そんな暖雅の呟きは祥の耳には届いていなかった。  静かな動物病院内にカツカツと靴音を響かせながら入口に向かう。  自動ドアを開けるとすぐにキャリーケースを持った女性がドカドカと中に入ってきた。 「これ、頼める? お金は置いとくわね」 「え?」  カウンターの上にドカッとキャリーケースを置いた女は封筒を祥に向かって投げつけるとあっという間に踵を返した。  動物病院の前に路駐していた真っ赤な車が走り去って行く。瞬きする間もないくらいの早業だった。 「……」  嫌な予感がした。  キャリーケースを開けると中には苦しそうに浅い息を繰り返す老猫がいた。その腹が異様に大きく膨らんでいる。 「持病がある老猫が子を孕み、手に負えなくなった。もしくは……不適切な繁殖と分かって捨てに来たか」  床に落ちた封筒を取った。多分、対価だ。軽すぎる、と思いながら白衣のポケットに入れ、キャリーケースを持って手術室へ向かった。 「もう、産気付いている。無事に産めるか?」  手術台の上にシートを敷き、その上に毛布を置いた。老猫を寝かせると分娩の経緯を見守る。 「……安楽死、か」  キャリーケースの中には雑な字で「安楽死」と書かれた紙が入れられていた。子猫どころか老猫も要らないということのようだ。  暫くすると子猫が一匹生まれた。  素早く取り上げて息をするよう促しながら全身をチェックする。 「両性具有か? 睾丸停留? しかし外陰が無い。排泄機能が正常でないかもしれんな」  奇形児だった。  次に生まれた子猫も診たが、両方の眼球がなかった。  3匹目は頭蓋骨の形が歪で、鳴き声をあげることなく虹の橋を渡った。  4匹目は片方の眼球がなかった。 「無茶苦茶だな。ブリーダーが無茶な交配をしたか、素人が多頭飼いで近親交配したか。どちらか、だな」  不適切な交配、しかも何世代にもわたって近親交配を重ねたとしか思えない。  子猫は生きていくのが難しい状態だったが、母猫も厳しかった。 「出血が止まらないな」  妊娠前から病気を患っていた可能性が大きい。  色々な病気が考えられたが、命を繋ぐのは厳しいとしか思えなかった。  輸血をしながら手術をし、命を助けた後に持病の治療をする方法もあるが、老猫に手術に耐える体力と気力があるとは思えなかった。 「……安楽死、か」  胸が痛い。  この仕事をする時はいつも目や頬が引き攣る。  不快感を露わにしながら準備にとりかかった。  命を奪うのは一瞬だ。  猫の後足の毛を剃り、カテーテルを装着して薬剤を流し込めば終わりだ。できるだけ優しく丁寧に作業を進めた後、呼吸をしなくなった母子をそっと棺に入れた。  体の汚れを丁寧に拭き取られた母子は、まるで授乳中のような姿勢で棺に収まっていた。それだけ見ると微笑ましい光景だ。 「……」  正月早々、なんとも嫌な仕事だ。  依頼した方は今頃、すがすがしい気持ちで新しい年を迎えているだろう。こっちは最悪の年明けだ。  着ていた白衣をゴミ箱に放り込み、長い時間かけて手を洗うと動物病院の入口に鍵をかけた。廊下を進み、リビングダイニングに入ろうとした時、足が止まった。電話で話す暖雅の声が聞こえたのだ。 「ん? いや、今は戻れない。お前の優秀な秘書力でなんとか乗り切ってくれ。しばらく動けねぇから。え? 親父が? それは……いや、俺は見合い話は乗り気じゃねぇって! それに、その子どもってのは俺一人でなんとかなることじゃねぇし。だから、相手って言ってもなぁ! ……ドイツのは違うだよ。そもそも、今の社長というのも俺は……」  誰と話しているのだろう。  秘書と聞こえたように思う。そして社長とも聞こえた。 (……秘書? 見合い? 社長? 子作り? 相手がいる?)  聞こえてくる話を勝手に繋げて想像すると、嫌な予感しかしない。  プー太郎なんてやはり嘘だ。レクサスを乗り回し、ブラックカードも自由に使える社長だったということか。 (……なにが目的だ?)  そんな男がどうしてここに居て、家事や仕事で祥に尽くすのだろうか。息を潜めて耳をそばだてる。 「……うん。悪いが頼む。いつも迷惑かけて済まないが、今回は本当に無理なんだ。じゃぁ。……お前みたいな優秀な秘書がいて俺も助かるよ」  会話が止まった。  暖雅が電話切ったようだ。  少し迷った後、忍び足で動物病院まで戻ってから、聞こえるように足音を立ててリビングに入った。 「あぁ、祥……って、おい、大丈夫か?」  いつもと変わらない様子の暖雅が慌ててソファから立ち上がった。 「顔が真っ青だぞ! どうした? なにがあった?」  電話をしていたことは一切、口にすることなく気遣う言葉を連発してくる。それが腹立たしかった。 「……大丈夫だと思うか? 元旦に産気付いた猫を押し付けられ、奇形児が生まれるのを見守り、母子全てを殺したのに。……殺しの報酬は一万だよ」  寂しい笑みを浮かべてソファに腰を落とす。電話のことは追求しなかった。いや、する気にもなれなかった。 「……」  心を痛めた表情になった暖雅が隣に座った。その顔を見ることなく言った。 「酒、あったよな」 「……祥」 「飲みたい」 「いや、でも……昨日の酒もまだ抜けてねぇのに……」 「飲む」 「だから、祥……」 「飲みたいんだ!」  苛立ちをそのまま暖雅にぶつけてしまう。  どうしようもなくドロドロとした感情が胸の中を占有していた。吐き出したいのに吐けない苦しみが胸を締め付け、心を苛む。 「ダメだ。朝飯も食ってねぇのに酒なんて飲ませられない」 「朝飯なんていい。酒がいるって言って……っ!」  突然、言葉に詰まった。  自分で両肩を抱き、フルフルッと体を震わせる。 「祥?」  暖雅が怪訝そうな顔で肩に触れてくる。触れられた瞬間、雷に打たれたような衝撃が全身を襲った。 「だ、めっ……」  全身の血液が沸騰しているようだった。  体温が急激に上がり、拍数が跳ね上がるのが分かる。  呼吸が浅くなり、高熱を出した時のように思考が定まらなくなっていく。  指を一本動かすのも億劫になる。  発情――。  冷や汗が背中を流れ落ちた。  最後に発情したのは高校生の時だ。  それ以降は執事の従路が完璧に周期を把握していて、早め早めに抑制剤を準備してくれた。 「に……2ヶ月に1回のはず……。先月初めに薬を飲んだのに……」  周期が狂ったのだろうか。喉を喘がせながら必死になって思考を巡らせる。だが、始まってしまった発情を抑える方法はない。このまま一週間、セックスに溺れるしかないのか。 「祥? おい、祥!」  暖雅の焦った声が聞こえた。 「離れ、て……頼むから、離れて……」  そういうのがやっとだった。  しかし、暖雅の体温と体臭が無慈悲に理性を奪い去っていく。  感じたい。  包まれたい。  拘束されたい。  組み伏せられたい。  体の奥深くまで愛されたい。  そんな感情が一気に湧き上がり、脳を支配する。  全身からむせ返るような甘く濃密な香りが勢いよく溢れ出すのが分かった。フェロモンだ。呼応するように暖雅の目が真紅に染まった。 「祥……お前、発情、した?」  暖雅の声が掠れていた。 「ダメ、離れて。絶対、ダメ……もし、私を抱いたら……」  息も絶え絶えに祥が言ったが、視界の端に写った暖雅の表情は獰猛な雄の表情だった。  オメガのフェロモンに当てられ、本性を剥き出しにしたアルファの顔だ。  自分の種を残すために相手を支配することだけを考え行動する獣になっていた。 「祥……悪ぃ。お前がうなじを差し出してくれるまで待つっつったけど……待てねぇ」  暖雅が重く深い溜め息を吐きながら欲に染まった声を漏らした。  乱暴に自分の服を脱ぎ捨てると、いつも以上に盛り上がり、力が満ちた屈強な体を露わにする。  その手が祥のスクラブにかかった。 「祥……今から、お前を俺のモノにする」  無情な宣告が聞こえた。  拒否することもできず、のし掛かってくる逞しい体を受け止めることしかできなかった。

ともだちにシェアしよう!