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第11話 愛の代償

 電話が鳴っていた。  随分と長く鳴って、それは切れた。  ぼんやりと視線を宙に向けたままソファに座り、暖雅にもたれかかっていた。  暖雅の胸から心臓の音が聞こえる。規則正しく脈打つそれは生きている証拠だ。 「暖雅……今日の夕食はどうする?」  返事がないのは分かっている。だが、声をかけずにはいられなかった。  不意の発情で暖雅を廃人にしてしまってから3日が経っていた。  動かない暖雅の側に何もせず座り続けていた。  暖雅はずっと「セックスしない」という言葉を守り続けてくれた。  悪戯のように手で攻めることはあったが、強引に体を奪うことはしなかった。  それに甘えてずっと我慢を強いていたのに発情で誘って抱かせた上、その人生に一方的に終止符を打たせた自分が許せなかった。  獣医師として小さな命を奪うだけでなく、アルファの人生も破壊する。そんな自分に嫌気が差す。  不意に玄関の方から音が聞こえた。ドアが開く音だ。 「……?」  祥の家の玄関を開けられる者は限られている。自分と暖雅、あとは執事の従路だ。 「祥様! 祥様、おいでですか?」  従路の声だ。  スピカが反応した。2本の尾を揺らしながら軽やかな足取りで玄関へ向かう。それに4匹の子猫が続いた。 「スピカ様、あけましておめでとうございます。貴方の主人はどちらにいらっしゃいますか? おや、かわいいご友人が増えましたね。後でお名前を伺ってよろしいでしょうか」  丁寧な言葉遣いで猫に話しかける従路の声が聞こえた。しかし、祥は動かなかった。  猫達の足音に続いて従路の足音が近付いて来た。少し足を引き摺るような特徴的な足音だ。 「祥様、いらっしゃいますか? 何度もお電話を差し上げましたが、お話しできなかったのでお邪魔いたしました」  従路が喋りながら近付いてくる。  ぼんやりとした視線を声がする方へ向けるが、メガネをかけていないので視界はぼやけたままだ。 「祥様!」  リビングダイニングに足を踏み入れた従路が鋭い声をあげた。部屋に満ちている卑猥な臭いに眉を顰めているに違いない。メガネが無いので見えないが、その顔は想像できた。 「従路か……」 「祥様……。おせち料理のお礼を申し上げようとご連絡差し上げましたが、電話が繋がらず。気になったのでお邪魔いたしました。して、……その方は?」  従路は黒いスーツをシワひとつない美しさで着ていた。  いつもと同じように白い手袋を嵌めた手を前で揃え、背筋を伸ばして返事を待っている。 「……龍福暖雅。アルファだ。でも、私と関係を持ったおかげで……このザマだ」  祥はフフッと笑った。涙が次々と溢れ出てくる。 「どうして発情したんだろう……先月の頭に飲んだのに。私の発情は2ヶ月に1度だったな?」 「祥様……」  従路は祥の特異な体質を知っている。  顔色ひとつ変えずに立っているが、この件をどう処理するか考えているに違いない。 「体調不良やストレスなどで発情周期は変わると聞いております。……なにか、特別なご経験はありませんでしたか?」  従路は冷静に話を続けた。  その言葉を聞きながら暖雅の顔を見た。  特別なことと言えば製薬会社社長を廃人にし、その後、暖雅と出会ったことだ。  暖雅はこれまでに出会ったことがないほど魅力的で、特別な繋がりでもあるのかと思うほど惹かれ続けたアルファだ。  祥はポツポツと暖雅との出会いを話し始めた。従路は背筋を伸ばして立ったまま話を静かに聞いていた。 「……事情は分かりました」  祥の話を聞き終えた従路は小さく頷くと、早速、部屋を片付け始める。 「折角のお暇をいただきましたが、ただ今から戻らせていただきます。それから……」 「?」 「龍福様のことを少し調べさせていただきます。同級生とのことですが……その、どうも最近、そのお顔を拝見したように思うのです」 「最近?」 「拙い記憶ですが……」  そう言った従路は部屋を片付け、服を洗濯し、食事の準備をした。  汚れていた猫用トイレを掃除し、自動給餌器にキャットフードを追加すると猫達のボディケアを始めた。瞬く間に猫という猫の毛並みが美しく輝き始める。  忙しなく従路が働いている最中も祥は暖雅の胸にもたれて動かなかった。 「暖雅……花見に行くんじゃなかったのか?」  思い出したように問いかける。 「お前の手作りの弁当を持って花見に行くんだろう? 2人だけで夜桜を見ながら……私の声を聞くのだろう?」  涙を零しながら暖雅に尋ねる。  自分の声で脳が覚醒するかもしれない。  そんな淡い期待を胸に、これまで過ごした時間を語る。 「今年は全てが成功するんじゃなかったのか? 大吉を引いて……全部が上手くいく年だったんじゃないのか?」  暖雅に同じ事を何度も尋ねていた。  奇跡が起きて、この現実がなかったことになるのではないか。  そんな願望を胸に暖雅に声をかけ続けた。  だが、暖雅はピクリとも動かない。  全く反応がないまま、さらに2日が過ぎた。 「祥様……」  深夜に従路が1枚の写真を持って来た。  メガネをかけるよう促してくる。 「昨年、日本の経済界のトップの方々がEUを訪れ、イギリスのEU離脱について話し合う会議がありました。そこに祥様のお父様もドイツの大使館から参加されていましたね」  EU加盟国の国旗や欧州旗、そして日の丸が並べられた部屋で20人ほどの男達が並んでいる集合写真だった。  その中に祥の父・啓司が居たが、すぐ側に大柄な男性が立っていた。その男性の鼻から上が暖雅そっくりだった。 「あまりに似てらっしゃるので調べさせていただきました。写真の方はラルフ・ミューエ様。ドイツにある製薬会社の社長です。EU域内だけでなく、アジアやアメリカにも支社があり、ドイツでは政界にも太いパイプを持っておいでです」 「……」 「ラルフ様には奥様がいらっしゃいますが、昔、来日された際、ある女性と関係を持ったようで……その……」 「もしかして、不倫で生まれた子が暖雅?」 「はい。ラルフ様と奥様の間には3人のお子さんがいらっしゃるようですが、ラルフ様の血を引くアルファは日本に居る不倫相手が生んだ龍福様だけ」 「……」 「少し調べただけなので正確さに欠ける情報ですが……。龍福様は、今、日本支社の社長です。ラルフ様は日本で会社の経営を経験した龍福様をドイツにある本社の社長に据えようとお考えのようです。今、なんとも煩雑な状況のようですね」 「そんな……」  暖雅は無職で仕事を探していると言った。  それは今の状況から身を退くためだったのだろうか。  出会ってすぐ暖雅の周辺のもめ事に首を突っ込んでいたことになる。  日本でも海外でも社会的地位が高い者の下世話なゴシップは多くの人の関心を惹く。  世界中に支社を持つ製薬会社の社長にアルファの子ができず、不倫相手がアルファを産んだこと。さらに、日本人の血を引く子をトップに据えようとしているなんて週刊誌の格好のネタだ。  その大切なアルファが特異体質のオメガのせいで廃人になっているなんて話が明るみに出たらどうなるだろう。 「……」  言葉が出て来ない。  従路の言葉は更に続いた。 「実は、祥様のお父様とラルフ様は月に数回ゴルフをする仲です。お父様は『日本に居る息子と連絡が取れず、消息が不明だ。……ケイジの息子と接点があるような話を聞いているが、なにか知らないか?』とラルフ様に問われたそうです。先ほど私の携帯にお父様からお電話がありました。祥様は今、手術中でお話できない、と答えさせていただきました」 「……」  全身から血が音を立てて引いていく。  クリスマスに会ってホテルに一泊したし、何度も2人でスーパーへ出かけた。  大晦日や元日には外へ出たから誰かに見られていてもおかしくない。 「ラルフ様は龍福様をドイツへ呼びたいようで、頻繁に連絡を取っていたそうです。ラルフ様や龍福様の回りの方の捜索の手がここに辿り着くのも時間の問題です。いかがいたしましょう」  流石に今回ばかりはどうしたものか、従路も考えあぐねているようだ。  よりによって外交官の父と繋がりのある者の息子と問題を起こすことになるとは思ってもいなかった。  暖雅の父が暖雅を跡継ぎに考えているなら何が何でも探しだそうとするだろう。この状況を知ったらどういう反応をするか。 「……そうか」  頷いてから従路に「帰れ」と短く命じた。そして毛布にくるまると暖雅の首筋に口付けした。 「なにが顔だけアルファの木偶の坊だ……嘘吐き。……単にお前がそうなりたかっただけじゃないか」  最初に身分を明かされていたら関係を持たなかったかもしれない。  最高に良い香りがして離れがたい相手だったが、暖雅が負う物の大きさを知ったら身を退いたと思う。  しかし、全てが手遅れだ。 「ごめん……暖雅」  何度目かの謝罪の言葉を口にし、首に縋り付く。  それ以上のことはなにもできなかった。

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