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第6話 マノン
引越しの疲れもあったのか、ぐっすり寝入ってしまってクラブにも行けなかった。瀬島薫が不慣れな重みに目を覚ますと、目の前にヒマワリのような微笑みがあった。
「おはよう、カオルさん。」
「今何時だ?」
「朝の9時です。」
「ヤバい!店サボっちまった。」
焦って飛び起きようとするが、雄介がまたがっているので身動きが効かない。
「大丈夫です。支配人には、カオルさん具合が悪いって言っておきましたから。それより、俺腹ペコですよ~。」
朝食を作って、待っていてくれたらしい。温かい味噌汁と、ご飯を黙って食べていると心配そうに気遣ってくれた。
「少しは疲れとれましたか?」
「ああ、久しぶりに寝だめしたから。」
かくして、大久保のアパートでの生活が始まった。
今回の事件の責任を多少感じたのか、鍔木が翻訳の仕事を紹介してくれた。これなら家や喫茶店でこなせるし、今更リーマンに戻れない、かといって肉体労働の出来ない瀬島にうってつけだ。
「すげー、カオルさんって頭良いんだぁ。」
横から雄介がのぞきこんで驚いた声をあげる。
「そんなことないよ。ただ辞書をひいて言葉を並べるだけだから。学校でやっていたのと同じだよ。」
「俺、学校行っていないから。」
あっさりと明るく返したので瀬島は逆に恥ずかしい気持ちになった。
「あ、俺出かけてくるから。店で会いましょう。」
雄介はそう言うと出かけていった。
どこへ行くのだろう、何をしているのだろうか気になるが、自分がそこまで詮索する資格はないのだから、と思いとどまる。自分が口ベタだから、あまりいろいろ聞くことはないのだが、何故自分になつくのか、どうしてここに置いてくれたのか、なぜ優しくしてくれるのか、聞きたいことは山ほどある。
もっと、雄介を、知りたい。
何故このような感情を持つのだろう。理由がうっすらわかっているのに、認めることがためらわれた。
昼間は雄介もふらっと出かけたり、そうでない時はバイクで散歩に出たりしている。瀬島の仕事の邪魔にならないように傍らに腰かけてその様子を見ていることもあれば、締め切りが近くて集中したい時はさりげなく場を外す。
そうでなければ、一緒にゲームセンターに行ったり、公園でキャッチボールをしたり。
不思議そうな顔で書類と瀬島の顔を交互に眺める表情。
逸らしてしまったボールを追いかける時のあどけない表情。
今更早紀と較べるつもりは毛頭無いが、おしつけがましくないペースが心地良かった。
(このまま雄介とずっといられたら・・・。)
そう思うと必ず思いだす一言。
「深入りすると、ケガするぜ。」
その言葉が雄介のパンドラの箱の鍵のように思われた。
店の仕込みやらフロアの掃除があるから、雄介は先に店に行く仕度をしていた。
「じゃあ、待ってますからね。」
また今日も同伴だ。スーツに着替え、指定されたWホテルに出向く。今日のお客は財界の大物の愛人をしている女性だ。代議士夫人Yと競って瀬島を指名してくる。おかげで歩合もかなり上がってきたし、店外デートによる臨時収入も増えてきた。
夕方の恵比寿駅に降りると、勤め帰りのサラリーマンやOLがぞろぞろと自分の歩く方向に逆らうように向かってきた。みんな無表情で、まっとうな道から遠ざかっていることを責められているみたいなイヤな気分がした。
Wホテルのラウンジバーでジントニックを飲んでいるとマダムがやってきた。周囲の目を気にする必要も無くなって、割りきって仕事が出来るようになってきた。もう流されない、しっかりしないと、そう思うたびに雄介の顔が浮かんだ。全て投げ出したくなるほどごちゃごちゃしていた自分の前に降り立った天使。
ニュー椿は客を結構選んでいるのか、興味本位の人やイマドキのコギャルなどには敷居が高い。おのずと、高級クラブのホステスや、政財界のご婦人方が中心なので、店外デートをしていても話題に気が抜けない。
今日のマダムは元声楽家だったとかでずっとオペラの話をしていた。瀬島はオペラはさっぱりわからないのだが、適当に相槌を打つ。
「カオルさん、マノン・レスコーのお話はご存知?」
「いえ、どのような?」
マノンは純粋な心を持つ天使のような少女だが、高級娼婦としての表情も持ち、恋人をそれゆえ翻弄し苦悩させ、悲劇の運命を辿るというのだ。
「哀しい話ですね。」
「そうね。でも、私はあんな純粋な心の恋人って憧れるわ。」
純粋な心の、恋人。娼婦の顔を持つ天使。
(雄介。)
ふとその笑顔が浮かんで、思わず思いだし笑いをしてしまった。天使はわかるけれど、娼婦?自分はそこまで惑わされているのかもしれない。
「あら、どうなさったの?」
「ボクも、そんな風にマダムを翻弄してみたいなぁ。いや、僕のほうが翻弄されているんですよね。」
ワイングラスを持つ手をすっと上からなぞるようにして語りかけるとふっと艶のある笑みで返した
「カオルさん、お上手おっしゃるわ。」
店に出向くと、雄介はいなかった。
「鍔木、雄介は?夕方店に行くって。」
「それが、連絡取れねぇんだよ。アイツがさぼったことなかったのに。」
カウンタでグラスを拭きながら話す。
「ま、ガキじゃねぇんだからなんか事情があるんだろ。」
その夜、雄介はとうとうアパートにも戻ってこなかった。
鍔木も鮫島も何か事情を察しているようにも思えるが、二十二歳の青年なのだから、一日帰ってこないような遊びだってするだろう。友達のところへ転がり込んでそのままとか、ああ、そうだ、彼女だな。俺が住み着いているから彼女を連れ込むこともできないんだ。悪いことしちゃったなぁ。
そう考えると納得がいくが、もやもやする。マノンの恋人は、こんな気分だったのだろうか。
気がつくと時計は朝8時半だった。窓の外では幼稚園に行く子どもの元気な声が聞こえる。瀬島は店から戻るとまんじりともせずに夜を明かしてしまった。
カチャリ、とドアが開き、雄介が音を立てないようにこっそり入ってきた。
「・・・雄介!」
「あれぇ、カオルさん。おはようございまぁす。起きていたんですか?」
何事もなかったかのように聞くと、大あくびをした。
「締めきり直前の翻訳があったから仕上げていたら、こんな時間だったよ。」
瀬島が微笑むのを見て雄介にはそれがウソであることに直ぐ気づいていた。だって、この間臨時で入った仕事を終えて雄介がバイク便代わりに届けに行ったのだから、今は余裕があるはずだ。
自分のことを待っていてくれたんだ、寝ないで。この人に心配かけてしまった。
「ごめんなさい。」
「いいさ。腹減っただろ?うどんぐらいしかないが。」
鍋を開けると、美味しそうな湯気が立っていた。
「一緒に食べよう。」
起きて待っている間心配で、もの寂しくて、戻ってきたら絶対一言叱ろうなどと考えていたのだったが、安堵の方が勝って拍子抜けしてしまった。
台所に立ってコンロに火をつけた時、傍らの流し台で手を洗う雄介を見てはっとした。
「雄介、ケガしたのか?」
「あ、バレちゃいました?大丈夫、唾つけておけば治るから。」
「いいから、ちょっと来い。」
居間に座らせて、押し入れの中にあった薬箱から消毒薬とバンドエイドを出す。見るとたいしたことはないようで、腕を切ってはいるが思ったほど深くないようだ。
「ちょっとしみるぞ。」
「・・・っつ!」
「転んだのか?」
「まぁ、そんなところ。」
バンドエイドでは塞ぎきれないので、包帯を巻くと瀬島の顔が直ぐ目の前で、少し伏目がちにしている表情を存分に見つめることができた。
(優しいなぁ、カオルさん。)
「さ、これで大丈夫。痛くないだろ?」
ぽん、と包帯を止めた金具の上から軽く叩くようにして笑顔を見せてくれた。少し眠そうなのに、俺、すごく心配かけちゃったのに。
どうしてこの人、俺なんかに優しくしてくれるんだろう。まるで…まるで…。
「どうした、雄介?」
気が付くと、雄介は瀬島を抱きしめていた。
雄介の胸に押し付けられた瀬島の耳に、雄介の早い鼓動が聞こえている。
「どこか具合でも悪いのか?」
心配そうに見上げる瀬島の目に入ったものは、近づいてくる雄介の顔だった。
目をつぶるのが精一杯だった。
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