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第7話 ざくろ
「カオルさん。」
優しく呼ばれて目を開けると、雄介の顔がすれすれの目の前にあった。
「いやだなぁ、冗談だよ。キスでもすると思ったの?」
いつものように、笑うと目がなくなる。
「あ・・・。」
瀬島薫は耳までかあっと赤くなると
「ば、ばか。からかうな。俺は、寝るから。」
そう言って部屋のドアを後手で閉めてしまった。
「カオルさん・・・。」
その後ろ姿に小さい声で呼びかけた。
(ごめんなさい。からかったわけじゃないんだ。)
本当に、キスしたかった。夢の中だけじゃなくて本当にその唇の味を知りたかったんだ。俺の舌を絡みつかせて、強く、強く吸い付いてカオルさんを思う存分味わいたい。
(カオルさんの舌が俺の口に割り込んで、舌にからみついたら、もぅ俺どっかイッちゃいそうだ。だけど瞬間、耳元で声がした。「オマエには、人は愛せない。」って。でも、好きになっちゃったんだ。苦しくて、切なくて死にそうなぐらいに。このままじゃ、俺壊れそうだよ。)
鍔木から、瀬島が寮を追い出されたと聞いたとき、ただ一分でも長く傍にいたいってことしか浮かばなかった。
一つ屋根の下での生活が始まって、難しそうな仕事をしている表情を眺めて、一緒に散歩したり、店から一緒に帰ったり、傍にいて嬉しいのに・・・。それだけじゃもう抑えが効かなくなっている自分がいる。
部屋に入っても瀬島薫はまだ心臓がドキドキしていた。雄介に「冗談だよ。」と言われたことへの恥ずかしさと、期待していた自分への怒りとで。何で、あのまま唇を奪わなかったのだろう。たとえ雄介がイヤがっても、息が苦しくなるほどに吸い尽くしてしまいたかった。
涙を流して抵抗してもいいから、どうしてその場に押し倒して腕ずくで自分のモノにしなかったのだろう。
もう否定は出来ない。確かに自分は雄介を愛し始めている。
不幸のどん底をひた走る自分に唯一笑顔を見せてくれたから。優しい手を差し伸べてくれたから。いや、そんなくだらない理由ではないような気がする。
俺が救われているだけではなくて、助けを求める微かな声が聞こえるような気がする。俺にだけはそのSOSが聞こえる。時折見せるうつろな表情、はかなげな微笑み・・・そうして、腕の傷。不可解な外出。瞳を凝らせば救いを求めて差し出す手が見えるはずなのに。
だが、金のために女性に媚びて、その身体を抱くこんな俺を雄介が受けいれてくれるはずが無い。
布団に横になっても目が冴えるばかりで一向に眠気は訪れず、黙って天井を見上げた。
その日以来、二人ともなんとなく会話がぎこちなくなってしまった。以前のように屈託無い冗談やボディータッチをすることもはばかられてしまった。
次に見つめあうことがあったら、触れることがあったらもう抑えがきかないことはわかっているから。
それと時を同じくして雄介の外出も増えた。瀬島も日中はいづらくて図書館に避難してしまう。雄介の2DKのアパートで、いつもは台所で一緒に過ごすことが多かったのに、別々に部屋にこもってしまう。
この間のように店を無断で休むことはなくなったものの瀬島は独りでアパートに戻って電気をつける回数が増えた。
酔いを覚まそうと水道をひねってコップに水をいれると、その音が2DKの狭い空間に響いた。
自分の空ろな心にまっすぐ響いた。
つとめて瀬島と距離を置くように、雄介は鮫島になついていた。
「あのな、オマエにつきまとわれても俺はうっとうしいの。カオルとケンカでもしたのか?」
「別に。でもね、あの人といると俺、辛いから。」
「ふん。勝手にしろ。俺はカオルみたいに優しくないぞ。」
お互い歌舞伎町は長いから鮫島は雄介を弟のように可愛がっていた。それだけに雄介がどこかムリをしていることもわかるがだからといって鮫島は優しい声をかけるタイプではなく、適度に距離を置いていた。
「ジュン。雄介とカオルのこと何か聞いてないか?」
仕事の上がった後、鍔木がサウナで汗を流している時に唐突に聞いてきた。
「知らねぇよ。雄介は一緒にいると辛いってさ。カオルのダチなら本人に聞けよ。おおかたケンカでもしたんじゃねぇの?それか、コクって振られたか。」
「なんだよアイツら、同居だけじゃなくて、そういうことなのか?」
「ニブイねー、支配人。商品管理しっかりしてくれよ。いや、マジなところはわからねぇけどな。それより、雄介フロアに出すのか?」
「何でだ?」
「最近客が”あの可愛いバーテンくんはフロアしないの”なんて言っているぜ。あれだけのタマ、もったいないだろう。」
「あいつは臨時以外では出さない。そういう約束になっていないから。」
「ふん。孝行息子め。」
「何とでも言え。」
そう言うと鮫島は「お先。」と言って出て行った。鍛え上げた上半身がまるでギリシャ彫刻のようだ。
鍔木は親友が悩んでいることを知っていたが、簡単には手のうちを見せない相手であることは解っていたのであえて自分からは何も聞かないことにしていた。
静の瀬島と、動の鍔木。正反対のようで弱音を吐かないところや自分に嘘がつけないところは似ている。雄介のことも、なにか自分で結論を出すのだろう。
そのプロセスで自分に相談してくるのであれば話も聞くが、その時はきっと瀬島の内でも結論は出ているのだろう。
(そういうシンの強さが、たまらねぇんだろうな、きっと。)
だが雄介は、ヤバい。最近の行動パターンからしても、瀬島とのことにしても、マイナス方面に走りかねない。
あの性格からすると、自分で勝手に決めつけて、突っ走りかねない。それでは元も子もない。どうしたものかと思案しながら煙草に火をつけた。
雄介とすれ違いを続けてもう1月近く経っていた。季節はすっかり梅雨に入り、気分を更に滅入らせるような雨続きだった。瀬島はクラブに出た後マダムと店外デートをして帰宅途中だった。
店にいるとついカウンタの奥の雄介が気になってしまう。誰と心を通わせているわけでもないのに、浮気でもしているような後ろめたさで溢れてしまう。だから、最近はめっきり店外デートをする機会が増えた。
マダムがまわしてくれたハイヤーを駅前で降りると、アパートへ向かって傘もささずに歩いていた。さすがに大久保のごちゃごちゃした界隈に住んでいるという生活臭を漂わせたくなかった。
今日もあの暗い部屋に戻るのだろうか。お互いが帰ってきたことを気配で感じても、うまく言葉を出せない毎日にもいい加減疲れていた。
雄介が外出したある日、瀬島は台所で翻訳の仕事をしていた。その日は梅雨の晴間で、雄介は洗濯物を干して出かけてしまったのだが、昼下がりになって雨が降りだした。
洗濯物を取り込まないと、とベランダに出て洗濯物を取り込み、雄介の部屋に運んだ。
普段滅多に足を踏み入れることのない雄介の部屋。
二十歳ぐらいの頃の自分の部屋とさして変わらないほどよい乱雑さを持った部屋の中は、脱ぎ散らかした服と、雑誌がいくつか散らばっていた。ベッドの上に服をぽんと放り、なにげに部屋の中を見回すと雑貨などを入れている3段のボックスが目に入った。
一番上には鏡やら、ブラシやらが散らばっている。
そこに伏せてある写真立てがふと気になって手にとると、雄介と少女と言っても良いぐらいあどけない印象の女性が並んで写っていた。
この部屋で撮ったらしい。彼女の肩に手を回して、二人とも頬を寄せ合うようにして微笑んでいる。雄介が慈しんでやまないという様子がその笑顔に溢れていた。
心がズキンと痛んだ。
ダメだ。俺には、入り込めない。雄介はあれから彼女の所に出入りしているようだし、これ以上いても迷惑だろう。そろそろアパートを捜さないと。
そう思って買っておいた賃貸情報誌が原因で、この十日ぐらいは二人の溝が決定的になっていた。
「カオルさん、出ていくの?」
「だって、このままいても迷惑だろ?オマエに気を使わせたくないから。」
「カオルさん・・・俺、そんなこといつ言った?カオルさんなんて、俺がどんな思いでいるかなんてこと何もわかっていないんだ。」
好きだから、という一言さえ言えればすべて誤解が解けるのにお互いその部分をオブラートにくるんでしまい、会話はすれ違うばかりだ。最初の頃は鮫島につきまとっていたがもともと一匹狼の彼に疎ましがられてからは店でも口数少なく、独りでいる事が増えてしまった。
雄介の笑顔を奪ってしまったのは自分の無神経さなのだと思うと辛かったがそれでも雄介から離れたくないわがままな自分をどうすることもできずにいた。
アパートの前まで来ると、階段の下に雄介がうずくまるように転がっていた。
「雄介!どうしたんだ?」
揺すると「ん…。」と声がした。階段から転げ落ちたのか、ここで力尽きたのか気を失っているらしい。見ると腕にも、頬にも無数の傷がついている。
あのキスしそうになった朝以来こんな事が続いていたが、一体どうしたというのだ。とにかく部屋へ運ぼう。長いこと雨のなかにいたのかずぶ濡れの服を替えて、傷の手当てをして。
「ひっ。」
どうにか雄介を部屋に運び、服を脱がせた瀬島は思わず声を失って、その場にへたりこんでしまった。
(な、何だよ、これ。)
雄介の背中一面に鬼子母神の刺青が彫られていた。
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