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第16話 月食

 池袋にあるボクシングジムを訪れると、ケンジがスパークリングをしているところだった。プロテストを1ヵ月後にひかえ、熱が入っている。 そんな様子をじっと見ていると、かつての舎弟も成長したな、なんて老成したようなことを考えた。 「雄介、おまえも練習するか?」 顔なじみのコーチが声をかけてくれたが、雄介はニッコリ笑って手を振って遠慮した。 ケンカしか能の無かった雄介を更正させる選択肢にボクシングという話も上がったことはあるが、佳耶を失い、少年院に送致が決まったあの一件で人を傷つけることにすっかり嫌悪を抱くようになってその申し出を受ける気になれなかった。 「いや、ケンジどうしているかなって。どうなの?」 「いい線いくと思うぞ。それよりオマエ、高校行っているんだってな。どうだ、学校は?可愛い娘いるか?」 「ダメダメ、未青年だからさ、みんな。逮捕されちゃうよ。」 ちょっとすくめた首には銀のチェーンがかかっていて、そこにこの間瀬島からプレゼントされたリングを通している。店で洗い物をする時にキズがつくとイヤだから、と瀬島がそんな高級品じゃないよと笑うのに大事にして普段は指にはめようとしなかった。 たださえこの間の「ポルシェ事件」で「青木にはパトロンがいるらしい」ような話になって、それを「あれは遠縁の親戚だよ」と釈明するのに大変だったから、学校にしていっても目立ってしまうし、かといっていつも身につけていたいからと考えた末のことであった。 (遠縁の親戚って・・・ダチより遠いじゃん) マシンのように規則的なパンチを繰り出すケンジを見ながら、ぼんやりと思考は他のところに向いていた。自分の過去も含めて自分を包んでくれる恋人に甘えて、お互いがお互いを誰よりも必要に思っていることは十分すぎるほど解っているのに、瀬島の細やかな思いやりが、自分には勿体なくて。なんの不満もないはずなのに、そのはずだったのに、最近寝つきが悪い。原因は自分でもわかっているのに。 自分の業なのに。 深淵のような業から抜け出して幸せを掴んでもいいと言われたはずだったのに、やっぱりこんな幸せな状態なんて、きっといつまでも続かないのだと考えてしまう。 きっと、自分はカオルさんを失ってしまうに違いない。 結婚だけが永遠の愛情ではないことは、自分の秘められた出生の背景を考えればわかる。そう頭では思っていながらも、瀬島とあれだけ強い絆で結ばれているはずなのに、どうして時折遠く思えるのだろう。 学校で「俺の遠縁」なんてつまらない嘘をつく必要がどこにあったのだろう。 傍にいるだけで、愛し合っているだけでは足りないのか。これ以上どんな言葉を、瀬島からかけてもらおうというのか。 練習を終えたケンジがスポーツドリンクのペットボトルを投げてよこしたが、雄介はぼんやりしていたため取り損ねて、ボトルは床を転がった。 「何ボンヤリしてるんスか、雄介さん。」 もう昔とは違うからタメ口聞けよと言っても、舎弟時代から変わらずケンジは雄介に敬語を遣う。 「あ、ワリィ。」 つい自分もケンジに対する口の聞き方は昔に戻ってしまう。 施設を飛びだした雄介は「新宿のコブラ」として名を馳せていたが決して群れることはなかった。 ケンジは義父の虐待から逃れるようにして雄介と同じ施設で育ち、中学時代はイジメにあっていたのを兄と慕う雄介に「特訓」されて強くなり、ある意味強くなりすぎて学校にも居場所を失って、雄介の唯一の舎弟を気取って新宿を闊歩していた。 施設で育つ子どもたちは誰もが似たり寄ったりで、互いの境遇なんて気にしたこともなかったが一度だけ、彼を虐待した義父はヤバいヤマでしくじって消えてしまったこと、きっとどこかの金持ちが彼の臓器で寿命を伸ばしているに違いないと淡々と話したことがあった。唯一の肉親である母親はどこかの住み込みで働いているそうだが、共に「風呂付きアパートの住む」日を夢見て、ケンジは自分の力でのしあがろうとしている。 「俺、もう練習上がるから。新宿戻るんでしょ?」 「ああ。」 駅へ続く線路際の路地をぽつぽつと歩いた。過酷な減量トレーニングのせいかケンジは以前とは打って変わって精悍な顔つきになっていた。いつもビービー泣きながら自分の後をついてきていたはずだったのに、いつしか自分よりも背が高くなっていることに気づいた。 自分がこうしてのたうちまわっているうちに、コイツは俺を超えて行くんだろう、きっと。 「珍しいっスね。雄介さんがジムに寄ってくれるなんて。」 「ケンジ、よく聞け。シブヤの”ラット”が戻ってきた。」 「マジっスか?ヤバいっスよ、雄介さん。アイツら仕返ししてきますよ。」 「そうだろうな。」 この1ヶ月ほど、同じ学校の生徒が恐喝に遭ったりしているという話はHRで担任が話してくれた。繁華街でなくて学校近辺でのことだから、御気楽な雰囲気のうちの高校がいいカモなのだろうとみんながまるで他人事のように話していたのを雄介は聞いていた。自分だって、ワルかった頃はカツアゲだってしたことがあるけれど、それでも弱いヤツから盗るなんて「ダサイ」まねはしなかったから、単に聞き流していた。 しかし、である。 ある日、グラウンドにバイクの爆音が響き体育の授業中だった女生徒達がグラウンドを逃げ惑った。3台のバイクに教師もなすすべがなく、英語の授業を受けていた雄介はクラスメートとともに窓辺に集まって、そしてそのバイクに乗っている人物を見てしまった。 (あれは・・・!) かつて対立していたシブヤのチーマーのヘッドだった「ラット」だった。自分がこの手で半殺しの目に遭わせ、病院送りにしていたがとうとう年少から戻ってきたらしい。 (あいつら、きっとどこかで俺を見つけたんだ。うちの生徒を狙うのは俺が出てくるのを待っているんだ。) 背筋にゾクリと走るものがあった。 「どうすんスか?俺も今度は加勢しますよ。」 「それはマズイ。オマエはプロテスト控えてンだから、手出すな。これは、俺とラットのことだから。」 「カオルさんは、どうするンすか?」 「カオルさんには、言うなよ。あの人のことだから、きっと心配するから。」 「ああ。・・・一つ聞いていいスか?」 「何だよ、ケンジ。」 「カオルさん、優しい?」 「何だよ、急に。ああ、優しいよ。そりゃ、たまにちょっとケンカするけどさ。俺たちさ、人からマトモな扱いうけたことねぇじゃん。でもサ、カオルさんは違うんだよ。俺も大事にされているかなって自惚れちゃうよ。」 「そっか。」 一度でもこうして優しさに触れることができたから、大事にされたから、いいんだ。と言葉を繋げそうになって、雄介は胸が締めつけられるような物哀しい思いにとらわれた。 (俺、ラットに殺られるんだ、きっと。) 自分が瀬島を失うのではなくて、自分が消えることになるんだ。あの時の自分と同じように怒りと復讐に燃えたラットに対してきっと俺は勝てない。 あの時できなかったこと―守ること―なら、身体を張ればなんとかなるだろう。 山手線の中では、二人無言だった。ケンジは練習後の心地よい疲れのためか10分ほどの短い時間に寝息を立てていた。雄介は吊り革につかまって中吊り広告のグラビアモデルを眺めていたようにみえたが、心の中では瀬島を求めていた。 例の「ポルシェ」を貸してくれた外車ディーラーの社長夫人の伊豆の別荘への保養に仕事として出かけてこの二日ほど顔を合わせていない。明日戻ってくる予定だけれど、こんな心細い時にただ瀬島が傍に居て、そう、店でだっていい。カウンタにいて顔を上げた瞬間に、その姿が目に入って、時折目が合って、にこりと微笑みが浮かぶ瞬間があれば、どれだけ落ち着くだろう。 (佳耶も、こんなに心細かったのかな?) 毎日あちこちでケンカやカツアゲをしていた自分を、どんなに心配して待っていたのだろう。そして・・・ラットたちが踏み込んできた時、どれほど自分を求めたのだろう。 (「雄ちゃん、今日も一日長かったね。」) それは佳耶の口癖だった。駅地下街の食堂で朝早くから夜遅くまで働く彼女は、同世代の女の子たちのように制服を着て、お化粧してデートしてという生活は無縁であったから、毎日同じことの繰り返しでしかない単調な生活はうんざりするほど長かったに違いない。 (「たまにはサボっちゃえよ。遊園地に連れて行ってやるよ。」) そんな勘違いをしていたから、あんなお気楽な言葉が出たんだ。佳耶は、ぷいと出かけて、どこかでチーマーとケンカしたり、チンピラにからんだりする雄介を案じていたに違いない。働く間も、そして独りで待つ間も。 友とよべる者もなく、雄介だけにすがって、毎日どんな気持ちでアパートの階段を上がる足音を聞いていたのだろう。 (やっぱり、ケリつけないと。) ここのところの自分の不安定な状態を瀬島が心配している。 少し困ったような表情をして、「雄介?」と問い掛ける声に、何度全てを話してしまおうと思っただろう。 でも・・・。 (俺は、いい。カオルさんをなんとしても遠ざけないと・・・あの人は、”関係ない”んだから。) 一番辛くて泣きたい時に、涙を分かち合ってくれる人にはその苦しみを見せることもできない苦しさに耐えきれず、雄介は嘆きにもちかい溜息を洩らした。

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