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第19話 修羅

 幻覚のようにすべて過ぎてしまったような、不思議な感覚が脳裏に残っていた。 きっとあのまま自分はなぶり殺しにされるのだろうと、露出させた「ラット」の下肢に唾を吐きかけた時、既に観念していた。 「ザけるな、野郎!」 前髪を掴まれて蹴倒されると、調子付いて周りの連中たちの蹴りが入り、痛みに息も出来ずにああこうやって人はフクロにされて死ぬのだろうと考えた。 (雄介。) 不思議と、恨む気持ちは無かった。 頼むから、来ないでくれ。俺を助けようなんて考えるな。連中の会話からどうやらシブヤ系らしい事が解ると、自分が拉致された目的も理解できた。もう俺と雄介は関係ないのだから、俺をダシにしても無駄だ。 (俺、好きな娘ができたんです) よかったじゃないか。それまでの決して長くない間だったけれど、雄介にとって多少でも安らぎを与えられたから、だから俺はこれでいいよ。この先、雄介が新しい恋人と幸せそうにする様子を見せつけられるのは辛いから。 (しかしコイツラ、加減ってものを知らないなぁ。マジ肋骨イっただろうな。) もうきっと殺されてしまうのに、骨折したら店を休まないといけないな、と心配する自分がおかしかった。 「何笑ってんだァ?」 「頭イカれたんじゃねぇの?」 「・・・バカは、オマエたちだろう?・・・俺は、ホストだから、金も払わない奴の言うことは・・・聞かないよ。」 「コイツ、マジムカつく。」 「殺っちゃおうぜ。」 「その前に、コイツデカい口叩けねぇようにしちまおう。輪姦して、泣かしてやろう。」 (その前に、舌噛むぞ俺は。) 表の方でメリメリという音がすると顔面血だらけになって下ッ端の、まだ中学生ぐらいの少年が階段を転げ落ちてきた。 「どうした?」 言い終えないうちに、もの凄い早さで「ラット」に飛びかかったのは、紛れもなく雄介だった。 人質をとられているとか、相手が刃物を持っているとかそういう状況を普通は見るのだろうが、一連の動きは獣そのものだった。 「ラット」からナイフを奪い返すと、簡単に押し倒して首筋に刃先を当てた。 「久しぶりだな、ラット。年少行ってアンパン止めたら太ったんじゃねえの?」 「コ、コブラ・・・。」 さっきまでの不遜な態度とは打って変わった「ラット」の青ざめた表情から、雄介の計り知れない凶暴性への恐怖が読み取れた。 「テメエ、こっちは人質とってんだぞ。解ってンのか?」 「バッカじゃねぇの?この人は俺と関係ないんだぜ。」 そう言いながら瀬島を見つめた雄介の目と目が合うと、瀬島は胸を締めつけられるような思いになった。 (バカ野郎・・・なんで、そんな哀しい嘘をついた?) 無理やり諦めようと、自分の心を殺そうとしていたはずだったのに。雄介の目は、申し訳ない気持ちと自分をいたわる気持ちに溢れていた。そんな目で見つめられたら、俺は気持ちを抑えきれない。何が何でも助かって、雄介と生きていきたいと思ってしまう。 「赤の他人だったら、俺たちが何しても気にしねえだろ?」 「佳耶にしてやったみたいにさ。」 「このお兄さんの綺麗な顔はどんな表情をするのかなぁ、雄介?」 「佳耶も、イヤだなんて口で言いながらあれだけ悦んでいたから。」 そこまで言い差すと、雄介の中で何かかろうじて結びついていた理性が弾け飛んだ音が聞こえたような気がした。いや、瀬島自身がそう感じたのかもしれない。 雄介はナイフを首筋ギリギリのところに突きたてると、猛然と「ラット」を殴り始めた。骨の砕ける鈍い音がした。「ラット」の仲間たちも、かつての雄介の凶暴な闘争本能を知っているから、手も出せずに黙って見ていることしかできなかった。「ラット」は悲鳴をあげ、半泣きになって赦しを乞うていたが、雄介の耳には届かなかった。終いには、声も出なくなっていた。 唇を噛みしめて押し殺した声で、雄介が呟くのが聞こえた。 「ナイフで一気に殺るのは面白くねぇ・・・佳耶がされたみたいに、なぶり殺してやる。」 「雄介、止せ!」 瀬島の止める声も聞こえないようだった。 「俺が必死で守っていたのに・・・なんで全部壊すんだよ!」 泣いているように見えた。 佳耶を守れなかった自分を責め、瀬島のことだけはどんなことがあっても手を出させないと心に誓って、心にもない嘘を言って。 (どうして、俺は一瞬でもおまえを遠いなんて思ったんだろう?) 汗ばむほどうなされたおまえの声を聞いてあげればよかったのだ。一緒に闘おうと、或いは一緒に逃げようと、二人で分かち合おうとどうして言えなかったのだろう。 「雄介、もうこれ以上傷つくのは止めてくれ・・・おまえが誰かを傷つけるのも、見たくないから・・・。」 「カオル・・・さん・・・。」 雄介の拳が、ぴたりと止まった。 「もう、充分だろう?佳耶さんは、もう還ってこない・・・だが、俺はこうしてまだ生きているから。」 言葉を発するたびに切れた口の中の血の味がして、息をするたびに折れた肋骨が痛み、これでまだ生きていようとする自分の執念が不思議だったが、こうでも言わないと雄介は相手がバラバラになるまで殴る手を止めないだろう。 「帰ろう、俺たちの家へ、帰ろう。」 そう呼びかけ、雄介が振り上げた拳を下ろして自分の頬を流れる涙を拭いながら、すすり泣いていた。 気がつくと、ぼんやりとした目に白い天井が広がり、周りを見回すと、黒ずくめの服装の男たちに取り囲まれていた。よくある奇妙なつながりのない夢なのだろうか。 (あ、俺死んだのか・・・。で、葬式なんだな、きっと。) なるほど人は死ぬと真っ白な世界に見えるのだな、と瀬島薫はどこまでも醒めた目で周りを観察していた。 自分がこうしているのだから、雄介もきっと死んでしまったに違いない。 自分に見せた一瞬の優しさが仇になった。 「ラット」が力を振り絞ってナイフを抜くと、雄介の腹部にずぶりと刺した。 「雄介ーっ!」 縛られた身体のまま雄介の方へ近づこうとしたが、力が入らず、痛みに気を失ってしまった。 口の中が乾くような後悔の思い。 もっと早くに雄介の話を聞いてあげていれば、何か手が打てたかもしれない。 鍔木にでも相談して、どこかに逃がしてやることも、警察に相談することもできたかもしれない。 どうしても戻らない時計に焦れても、パソコンの再起動のように全てやり直すことはできないのだ。 鼻の奥がツン、として涙がこぼれた。 (死んでしまっても哀しくなるのだなぁ。) 黒服の男たちは微動だにせずこちらを眺めている。参列者にしても、馴染みのない顔ばかりだった。 (ひょっとしたら、もうあの世に来てしまっているのだろうか?) ぼんやりとした思考は、けたたましいアナウンス音にかき消された。 (木野先生、至急外科医局にお越し下さい。) 「え、ここは?」 病院なのか、すると俺は生きている。雄介は? 起き上がろうとすると、脇腹に鈍い痛みを覚え、思わずうめき声をあげると周りの黒服の男たちが駆け寄って瀬島を押さえつけた。 「まだ起きちゃいけねぇ!」 「すぐにジョージさんを!」 バタバタと走り回る男たちの会話から、彼等が「その筋」の人である事が解ると瀬島は絶望した。 (雄介、チーマーの次はヤクザにまで恨まれていたのか?) こんなプロ相手では今度こそ俺は助からないと、あれほど死ぬのは怖くないと覚悟していたくせに一度”生き返って”しまうと今度は死ぬのが怖くなっていた。 緊張した面持ちでじっと横たわっているとガチャリと病室のドアが開いて鮫島が医師を伴って入ってきた。 「ジュン・・・。」 「良く似ているだろ?俺はジョージ。ジュンの双子の弟だ。」 (双子の・・・弟?) 「瀬島さん、具合はどうですか?肋骨が3本も折れていましたよ。」 名札を見ると「木野」とあった。外科の担当医だという。 「先生・・・雄介は?アイツは、どこですか?」 「あなたと一緒に運ばれた青年は今ICUに入っています。まだ意識が戻っていません。」 (まだ生きている・・・。) その思いが、瀬島に一瞬の安堵を与えたが、予断を許さない厳しい状況に思わず息を飲んだ。 「彼に、会わせて下さい。」 「生憎ですが、関係者以外面会謝絶です。」 「僕は・・・彼の家族です。たったひとりの、僕の家族です。先生、お願いします・・・。」 白衣の袖にすがるようにして、必死の表情で訴えると、木野はその気迫に折れたようだった。 「わかりました。車椅子を用意させます。」 黒服の一人が車椅子を押して廊下を進むと、看護婦や見舞い客達が避けるように道を開けてくれたので、瀬島はバツが悪かった。ICUと書かれている一角に入ると、全身に管を繋がれた雄介がビニールの天蓋の向こうで眠っていた。 「刺された傷が思いの他深かったのですが、幸い急所を外れていたため即死を逃れました。出血多量で、輸血をしましたが、後は本人の生きる意思頼みです。」 「中に入っても、良いでしょうか?」 消毒済みのローブを着せられて、よろよろと傷口を押さえながらベッドのところまで行くと、雄介はまるで眠っているようだった。黒い長いまつげが少女のようで、青白いのは、大量に血を失ったせいだろうか。 点滴の管がつながれた手をそっと握ると、弱々しい脈を感じた。 瀬島はゆっくりと雄介に話しかけた。 「雄介・・・よくわからないけれど、俺達まだ生きているんだよ。拉致された時、正直雄介にふられてもう生きていても仕方ないと思ったけれど。助けに来てくれたんだね。ごめんね、無茶させちゃって。オマエにあんな嘘までつかせて、辛い思いさせちゃったね。俺、やっぱりオマエを残して逝けないよ。・・・佳耶さんにも、約束したんだもの。雄介を、守るって。だろう?だから、早く目を覚まして・・・二人のあのアパートに、手を繋いで帰ろう。」 こぼれる涙をそのままに任せ、雄介の手を握ると微かに握り返してくれたような気がした。

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