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 屋根の下に辿り着いた頃にはぐっしょりと衣服は濡れ、立ち止まったそこに水溜りを作った。 「雪蘭様!?」  ちょうど、居合わせた士官の青年が驚いた表情で駆け寄ってくる。  年若い士官達にとって、十八という若さで王族直属親衛隊に入隊した雪蘭は憧れの存在だ。かすかに頬を赤く上気させた士官の青年は視線をさまよわせて口を開く。 「その、湯殿へ向かった方がよいかと……」 「莫迦か。すぐに嵐が来る。対策をせねば」 「し、しかし! ですね……あの、なんといいますか……」  もごもごと口籠る青年に眉根を寄せた。はっきりとしないのは嫌いだ。  ただでさえずぶ濡れで最悪だと言うのに、引き留められて時間が過ぎて行くことに苛立ちを隠せなかった。  雪蘭の気性の激しい母の気質をそっくりそのまま受け継いでいた。  母は好き嫌いの激しいはっきりとした性格の(ひと)だった。食事にしても、着るものにしても、人間関係にしても、「これは嫌」「あれは嫌」「それは良い」と言える女性だった。  はっきりしないことが嫌いで、少しせっかちなところがあった。せっかちで、心配性で難しい性格だけど、とても美しく気高い、女性だった。全ては過去形だ。  母は雪蘭が成人する五年前に、突然姿を消した。新月の夜だ。散歩に行くと言って出て行ったきり、母は帰ってこない。待てど待てども、母は帰って来なかった。  九歳の春のことだ。あぁ、そういえばちょうどその時、今のように嵐が近付いていた。窓を叩く雨音が怖くて、でも抱きしめて慰めて甘やかしてくれる母はいなくて。哀しくて、怖くて仕方がなかったのに涙は一粒も零れなかった。  郊外の小さな御屋敷に雪蘭と母と、乳母と傍仕えの男性の四人で暮らしていた。  朝は母の甘やかな声で起きる。夜は母のしとやかな唄で眠る。  花の香りのする母の顔は記憶から朧げ、年を越すごとに薄れていく。それが悲しくて、哀しくて、苦しくて辛かった。  ご主人のいなくなった御屋敷は時が止まったままだ。乳母と傍仕えがいようとも、御屋敷を回していたのはご主人たる母。傍仕えが御屋敷の中のことをしてくれようとも、母のいなくなってしまった子供は途方にくれたように外を眺め続ける。  どうしようもない、扱いづらい子供だったと思う。  母を知る人は雪蘭を見て、日に日に母に似ていくと言う。  とても優しく、砂糖菓子のように甘い(ひと)だった。優しくて、甘くて、とてもとても美しい女性だった。  色鮮やかな絹を纏い、雪蘭の受け継いだ艶やかな真っすぐの黒髪を結い上げて、新雪のように真白い肌、紅要らずの唇。いつか読み聞かせてくれた童話に登場するお姫様なのだと信じて疑わなかった。

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