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聖-02
衣替えの時期はまだだけど、上着を着用しない生徒が増えてきた。校内では、創設者や来賓が来られるとか大事な式典とかがない限りフロックコートは着なくてもよくて、シャツとベストだけで過ごせる。ベストは夏用と冬用があって、今はほとんどの生徒が夏用を着ている。
土曜日、図書館でお菓子作りに関する本が無いか探していた。聖トマス・モア学園の図書館は、街にある図書館並みに広くて蔵書の数も多い。化学や生物など理科系の本、数学理論、語学、小説などの文学、美術書、と高校生の読み物としてはレベルが高いけど、そういった本があるのはわかる。
それに加えて医学書や心理学、哲学書、宇宙工学など全くよくわからない物まである。こういうのはS組の人が読むのかなあ…なんて、一生縁のなさそうな書架を見上げていたら。
「君も形而上学に興味がおありですか」
後ろからささやかれ、思わず声を上げそうになった。振り返ると、榊会長が本を数冊手にしていた。会長も上着は着ていない。シャツの上に、紺色にグレーの細いストライプが入ったベストだ。
「あ、榊会長、こんにちは」
「お探しの本があれば、いっしょに探してさしあげますよ」
そんな榊会長の抱えている本を見ると、量子力学だの不可知論だのヘーゲルの何とかといった、よくわからないタイトルだらけだ。さらに書架から、俺の頭の上の本を抜き取った。形而上学と書いてある。形而上学って…何?
「あの…お菓子作りの本がないかなあと思ったんですが、どこにあるかわからなくて」
会長は顎に長い指を添えて考えこむ。
「…この図書館はよく利用しますが、そういった本は見たことがありませんね」
「そうですか…ありがとうございました」
その場を立ち去ろうとしたら、“遠野くん”と呼び止められた。
「チョコレートの品評会で殺人事件が起きる、という外国の小説ならありますよ。いろいろなチョコレートが出てきますが、いかがですか?」
「その本…難しくないですか…?」
会長が眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。眼鏡の奥の目は、優しく微笑んでいた。
「私が通っていた中学校の図書室にもありました。なので、難しくはないですよ」
小説の書架に案内された。SF、時代物、外国文学などに分類されている。
「『死神のチョコレート』、これですね」
物騒な名前だけど、スイーツに目がない探偵が難事件を解決するという、中学生にもわかりやすいストーリーだそうだ。
「強いて言えば、製菓の専門用語が出るくらいですが、君ならわかると思います。テンパリングとか」
「あ、それなら大丈夫です。選んでくださってありがとうございました」
本を借りた後、榊会長にお礼を言った。去っていく会長の背中を、見えなくなるまで見送っていた。長い長い渡り廊下は、長身の会長をいつまでも見送れるぐらい、広くてよく見渡せる――
一週間で『死神のチョコレート』を読み終えた。あまり分厚い本ではない上に、本当に読みやすく訳されているし、とにかく内容が面白かった。犯人も意外な人物で。
その次の土曜日、本を返しに来たらまた榊会長と図書館の入り口でばったり会った。
「榊会長、こんにちは」
「こんにちは、遠野くん」
「この本、とても面白かったです。カプセル状のチョコの中に犯人が鍵を入れて隠すなんて、ちょっとびっくりです」
榊会長がにっこり微笑む。
「君のお菓子作りのヒントになりそうですか?」
「カプセル状のチョコも面白いけど、二重底のカップの下に盗んだマイクロチップを隠して、ショコラ・ショーで覆って隠すっていうの、似たようなのを作れそうな気がします」
「楽しみにしてますよ」
中山が美術部の先輩から聞いた話では、榊会長はIQテストで150を出したらしい…。そんな会長と同じ本を読んだなんて、誇らしく思える。
会長は、ほかの誰かにもこの本を薦めたんだろうか。ほかにいないとしたら、俺と会長の二人だけの秘密みたい――って、何考えてんだ俺は。
「あれ? 会長、それ先週借りた本ですよね? もう読んだんですか?」
会長がカウンターに返した本は、全部で四冊。量子力学だの不可知論だのヘーゲルだの形而上学だのと、難しそうな本だ。
「ええ。中学生のころに速読術をマスターしましたので、全部一日あれば充分読めますよ」
凄い! 榊会長にはできないことは無いのかな。
「難しそうな本ですね。内容を全部理解できるなんて、速読術も凄いけど尊敬しちゃいます」
ふと、俺の方を見下ろした会長の頬、少し赤くなって。いつもの微笑みとは違って…照れたのかな?
「今、授業でやっているところですので、少し掘り下げて調べたくなったのですよ」
S組って、どんな授業してるんだろ…。俺にはついていけない。やっぱり、榊会長は雲の上の人だ。
「では、これで」
榊会長は、書架がある方へ歩き出す。俺には読めない、本の海の底へと深く潜っていくようで。
『死神のチョコレート』みたいな、俺でも読みやすい本はありますか? そう聞いてみたい。でも、会長の勉強の邪魔になる。
榊会長の邪魔にならないよう、小説の書架を探してみる。もし何か借りれば、来週ここで榊会長に会える――生徒会室では週五日会ってるじゃないか。さっきから何を考えてんだ俺は。
「遠野くん、『世界のケーキで見る文化と歴史』という本がありましたよ」
振り向くと、榊会長がA5サイズの本を持って微笑んでいた。
「会長…」
「ざっと読んでみましたが、なかなか興味深いと思いますよ。日本の餅も載ってました」
「餅?」
「餅は英語で“rice cake”と言いますからね」
きれいな発音の会長にみとれて、お礼を言うのも忘れていた。
「あ、あの、わざわざすみません、ありがとうございますっ」
会長の長い人差し指が、俺の唇に触れる。
「遠野くん、声が大きいですよ」
「す、す、すみません…」
テンパって大きな声を出してしまった。会長の人差し指が俺の唇に…今はもう、そのことで頭がいっぱいだった。
会長が俺のために本を探してくれた。今日だけ特別、それでいいですよね。会長の勉強の邪魔はしませんから。
けど、またこの本を返しに来たら会長に会えるんだな、と淡い期待はどうしても消えなかった。
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