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聖-03

 翌日の土曜日の午後も、同じ時間に図書館に来た。「世界のケーキで見る文化と歴史」は、お菓子作りの参考になった。まだ作ったことのない外国のケーキにもチャレンジしてみたい。  本を返し、書架が並んでいる方を探す。榊会長はいない。背が高いし、ほかの人とはベストが違うから、すぐにわかるのに。  がっかりして図書館を出ると、ちょうど中に入ろうとしていた長身の人とぶつかった。 「あっ、すみません」 「私こそ申し訳ありません。大丈夫ですか?」  あっ! 榊会長だ! 「は、はいっ、大丈夫です」  ああ、今日はすれ違うだけなのか――  そんな風に少し残念に思っていたら。 「今日は本を借りないのですか?」 「あ、あの…授業の復習がありますから」 「勉強熱心ですね」 「熱心というより…ついていくのが、やっとなんですね」  聖トマス・モア学園の授業は、俺たちの芸術クラスでもかなりハードだ。  力なく笑って頭をかく俺に、榊会長もにっこり笑ってくれる。 「わからないところがあるなら、私が教えてあげますよ。時間があるなら、今からでも教科書とノートを持っていらっしゃい」 「えっ! いえ、そんな! ご迷惑ですから」 「そんなことはありませんよ。閲覧室の隣の学習室にいますからね」  そう言って長い脚はスタスタと図書館の中に入って行った。  榊会長が勉強を教えてくれる――俺は急いで寮に教科書やノート、ペンケースを取りに行った。  図書館には受付のカウンター、各種書架、閲覧室があり、閲覧室の奥がパソコンルーム、学習室に繋がっている。俺みたいに誰かに勉強を教わったり友達同士で勉強するとき、私語禁止の閲覧室ではできないから、こうして学習室がある。閲覧室と同じように、長い机と椅子が並んでいる。  俺は数学の教科書とノートを広げていて、向かい側に榊会長が座っている。さっそく、数学の授業でやったばかりのところを教わる。 「三次以上の因数分解は確かに複雑ですが、公式さえ記憶しておけば後は応用も置き換え法で解けますよ」 「その記憶するのが…。何で式はプラスなのに、こっちはマイナスがついてるのか…それが理解しにくくて」  榊会長が、クルッとノートをひっくり返した。何やら書きこんでいる。 「もっと簡単な数字で解いてみましょうか。あとは二項定理を利用して解く方法も試してみます」  会長が作ってくれた問題は解きやすかった。会長が教科書を作れば、もっとわかりやすい内容になるんじゃないか、そう思うほどだ。 「公式は理論をわかっていないと、ただ暗記するだけでは後で忘れてしまいます。どうすればこうなるのか、もう一度ゆっくり解いてみましょうか」  先へ先へと進むんじゃなく、一歩手前に戻って理解するまで反復練習をする。そんな榊会長の授業のおかげで、数学のテストはなんとかなりそうだ。 「榊会長、今日はありがとうございました。数学が面白いって、初めて思いました」  立ち上がってお辞儀をする俺に、榊会長も立ち上がる。 「よければ来週も、お勉強を見てあげますよ。夏休みが明けたらすぐに前期末のテストがありますから、テスト前にも見てあげます」 「でっ、でも…会長のテスト勉強が…」 「S組はテストがありません。この学園の課程は修了していますからね。前期末と後期末に、レポートないし小論文を提出するだけです」  さすがS組! そうか、すでに卒業できる単位は取れているから、テストは必要ないんだ。 「来週の土曜日も、よければ学習室にいらっしゃい」  翌週もまた、榊会長のご好意に甘えて勉強を教えてもらうことになった。今回は英会話の授業。文法だけでなく会話もあって、テストにはヒアリング問題もある。 「英会話は、文法を難しく考える必要はありません。例えば、“Nice to meet you”、君はこの英文を何て訳しますか?」 「はじめまして、ですね」 「でしょう? 正確には“あなたに会えて素晴らしいです”といった意味ですが、君は一つのフレーズとして暗記していますね。難しくとらえず自然体で読み書きし、単語の意味も一つずつ焦らず覚えてください」  榊会長の英語の発音は、とてもきれいだ。英会話を担当している英国人の先生みたいに。 「遠野くん、歌で英語を覚えると、自然と文法も身につきますよ」 「歌ですか…。洋楽はいままで聴いたことがなかったです」  榊会長がノートにすらすらと英文を書く。書き上げたものを見せてもらうと、童謡だった。 「子供向けの英会話教室みたいですが、単純な文法が使われていますからね、とても覚えやすいですよ」  ノートの上にはイタズラなネズミが、歌っている小鳥が、頭の上にハエがいて困っているウサギたちがいる。自然に文章が頭の中に入ってくる。 「これは手遊び歌でしてね」  なんと榊会長が歌に合わせて手遊びをする。まるで保育園の先生みたいに。  勉強が楽しい。榊会長のおかげで、そう思える。  勉強が――いや、それはそうなんだけど、こうして榊会長といっしょにいるのが楽しい。はじめは取っつきにくそうな人かなって思ってたけど、榊会長は意外に優しい。そうだ、入学式のスピーチでも優しい言葉で語りかけてくれたじゃないか。  いつまでもこうして、榊会長といたい。俺はそう思うようになった。

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