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聖-16

 昨日ぐっすり寝たせいか、朝早くに目が覚めた。まだ六時ちょうどだ。カーテンをかけていても、明るい日差しがよくわかる。カーテンを開けると、まぶしい光が直撃する。その下にはキラキラ光る海。本当に波が立っているのかなと思うぐらい静かな水面だけど、砂浜には白い泡が押し寄せる。ふわっと暖かい風が入ってきて、磯の香りを運んできた。今日はあの海に出かけるんだ。  会長はまだ眠ってるかな。寝室は壁で仕切られているけど、ベランダは全ての部屋に続いている。もちろん、隣の会長の部屋にも。…覗いちゃダメかな。会長の寝顔、見てみたいな…。って、変態か俺はっ。よく見るとカーテンがかかってるし、鍵もかかっているだろう。  じっと隣の窓を見ていたら、急にカラカラッと窓が開いて心臓が止まりそうになった。 「あっ、おはようございます、会長」 「おはようございます、遠野くん」  寝起きで眼鏡がなくて、髪がボサボサなんだけど、笑顔は朝日に負けずまぶしい…。 「ここから海がきれいに見れて、いいですね」  会長は前髪をかき上げ、目を細める。 「ええ、すべての寝室から見えますからね。東側にあるホテルが少々邪魔ですが」  手すりにもたれ海を眺める会長に、しばらく見とれていた。 「どうしましたか?」 「あ、いえ、ごめんなさいっ。会長って…眼鏡無くてもカッコいいなって…」  言ってしまってから、顔がカーッと熱くなる。何言ってんだろ、俺…。  会長はまた、前髪をかき上げる。 「嬉しいですよ、君にそう言ってもらえれば」  少し照れたように笑う会長もカッコよくて、もう真正面からまともに会長の顔が見られない。思わずうつむいてしまった。 「ハッピーバースデー、新太」  えっ?  今、新太って下の名前を呼び捨てされた?  と、顔を上げたとき。 「ひゃっ?!」  会長が俺の頬にキスをした。 「朝食まで時間がありますから、スカーレットの散歩をしましょうか」  会長は寝室に戻って行った。しばらくボーっとしていた俺も、着替えるために慌てて寝室に戻った。  ご飯とお味噌汁、焼き魚などの旅館みたいな朝食をいただきながら、俺はずっと考えてた。  会長はなぜ、俺にキスをしたんだろう。イブ先輩がするみたいなもんかな。でもイブ先輩はアメリカ人の血が流れてるから、キスなんて挨拶みたいなもんだろうし。会長は生粋の日本人だけど、もう心はアメリカ留学に飛んでるのかなあ――なんだか胸が痛い。 「遠野くん、たくさん食べてくださいね。海で泳ぐのは体力を使いますよ」 「あ、はいっ。この魚おいしいですね。さすが漁港の町だ」 “新太”って呼んでもらったのは、あの一回だけ。もう“遠野くん”に戻ってる。あのキスは、“新太”って呼んでもらえたのは、俺の夢だったのかな。  午前九時ごろ、スカーレットも連れて別荘を出た。外を歩くとき、スカーレットは命令が無い限りは絶対に飛び出したり勝手に歩いたりしないんだけど、周囲の人への配慮から必ずリードをつけているそうだ。  朝からセミの声が凄い。蝉時雨っていうよりゲリラ豪雨だ。遊歩道をしばらく歩くと、ビーチについた。パラソルがちらほら見えるけど、まだそれほど混んではいない。  砂にパラソルを固定し、シートを敷いた。  お昼のお弁当は多恵さんが作ってくれて、垣内さんがクルーザーに届けてくれるそうだ。  この辺りは人が少ない。会長はリードを外して“来い!”と波打ち際まで走る。砂を蹴り上げ、スカーレットも勢いよく走り出す。俺もパーカーを脱いで後を追った。犬かきで波に逆らって泳ぐスカーレットに、俺は平泳ぎでついて行った。海で泳ぐのは、中学の臨海学校以来だ。 「スカーレット! ゴー!」  スカーレットの方に向かって、会長がビーチボールを投げた。スカーレットは水の中からジャンプして、ボールを鼻先でレシーブする。水面に落ちてプカプカ浮いてるボールを、鼻でつつきながら犬かきをして、会長のもとにボールを返した。 「うわあ、賢いですね!」 「ブリーダーを雇いましたからね。私も家族もみんな、ブリーダーから講習を受けました」  会長とスカーレットは、信頼関係ができている。俺が羨ましくなるぐらい。  俺も会長と、そんなふうになれるかな。でも頑張ったところで、会長はあと数ヶ月後にはアメリカに行って、離れ離れになる。 …まただ…。最近、会長のことを考えていて留学のことを考え出すと、自然に涙が出る。一度、会長の前で泣いたことがある。もう心配かけたくないし、情けない奴と思われたくないから、会長の前では泣かないって決めたのに。  普段とは違う、楽しんでる笑顔の会長。もうそんな姿を見られないのかな。 「ワンワンワン!」 「うわっ?!」  いきなりスカーレットにタックルされて、俺は海に沈んだ。海はいい。泣き顔を見られずにすむ。 「大丈夫ですか?」  腕をつかむのは、会長の手。大きくて頼りになる手。でも、俺からつかんじゃいけない。そうするとまた、泣きそうになる。会長は、頭からずぶ濡れの俺を引き上げてくれた。 「このお転婆は、心を許した人には飛びつくんですよ。全く、困った子です」  会長は困った子と笑うけど、俺は助かった。ありがとう、スカーレット。ずぶ濡れになったおかげで涙が隠せた。

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