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イブ-07

「コンクールって、八月一日だよね?」  イブ先輩が携帯電話を出した。 「はい、そうですけど」  俺を見て、にっこり笑う。キスされたことを思い出してしまって、一気に顔が熱くなった。 「スケジュール調整するからその日は日本に帰って、コンクール会場まで行っちゃおうかな」 「ええっ?! イタリアでしょ? ショーと撮影は大丈夫なんですか?」 「うん、ショーは七月三十一日。撮影はショーのリハの合間にあるし」  ショーの前日にレセプションパーティーがあって、それは必ず出席しないといけないそうだ。でもそれさえ出ておけば、ショーの後の打ち上げパーティーは内輪で行われるものだから、挨拶だけしてその日の最終便までに乗れば、当日会場まで行けるらしい。 「ありがとうございます! 頑張ります!」  その後部室に帰ってから、直樹はうつむいて黙ったままだった。 「直樹…その、コンクールの日さ、夏期講習が終わった後で間に合えば…来てほしいな。イブ先輩も来るっていうし。二人の分も、余分に作っておくからさ」  食器をすすぎ終わって、直樹は顔を上げた。嬉しそうな笑顔で、逆に驚いてしまった。 「うん、ありがと。間に合えばそっちに行くよ。で…相談なんだけど…」 「何?」  手を拭きながら、直樹は頬を赤らめた。 「せっかくだから、イブさんと二人きりで話したいんだ。だからコンクールの後、新太は剣先輩と二人でどこかに行く約束とかしてほしいんだ…」  俺は拭いていたお皿を、危うく落としそうになった。 「そ、そんな…。俺が剣先輩を誘ったって、イブ先輩も来るかもしれないだろ。二人は仲がいいんだから…。それに、イブ先輩にも都合はあるだろうから…」 「お願い! 僕、本気でイブさんのこと、好きになったんだ! 仲を取り持ってよ、お願い!」  直樹が俺の両腕をつかんで揺さぶる。今度は本当に、床に落としてしまった。柔らかめの床材で、お皿も丈夫な耐熱皿だから割れなかったけど、洗いなおしだ。 「と、取り持てったって…」  モヤモヤする。何で俺が、お断りだ、それしか頭に浮かばない。 「だ、第一イブ先輩が、同性を好きになるかどうか…」 「好きになるよ。だって、イブ先輩はバイだって噂があるから」  そんなの初耳だ。一言だって、イブ先輩はそんなこと…。 「そんなの…ただの噂に過ぎないだろ」 「だって、パパの会社に遊びに行ったとき、よくイブさんの取材をしている記者から聞いたんだ」  直樹は勝ち誇ったような笑みだ。でも、何でそんな人がイブ先輩のプライベートなことを、しゃべったりするんだろう。 「何で僕にそんなことをバラすんだって、疑ってるでしょ。僕は社長の息子だよ。将来の社長だよ? 今から媚び売って種を蒔いて、将来に備えようって社員もいるんだよ。僕のイブさんファンは、出版社の中でも有名だからね」 …呆れた…。将来、直樹が父親の出版社に就職すれば、イブ先輩はどうなるんだろう…。ファッション雑誌の編集部に配属されるように父親に頼んで、始終イブ先輩につきまといそうだ。将来も心配だけど、今の話を先に解決しないと。 「けど、俺は…どこまでできるか自信無いよ」  それだけ言うのが、精一杯だ。 「新太は当日、コンクールに出てくれたお礼に食事に行くとかで、さっさと剣先輩を連れて行ってくれたらいいからさ」 「そんなの、わざわざスケジュールを調整して来てくれたイブ先輩に悪いだろ。長旅で疲れてるだろうし」  直樹…勝手過ぎる! 俺たちだって、忙しいところに来てくれたイブ先輩に、お礼が言いたい。 「だから、そのお礼は僕がするよ。もし、イブ先輩が四人でどこか行こうって言っても、“お邪魔しちゃ悪いから”とか何とか言って別れてよ。剣先輩にも、そう伝えて」  喉まで出かかった言葉を飲みこむ。ぐっとこらえて別のことを直樹に言った。 「…まあ、考えとくよ」  直樹は機嫌よく帰って言った。けど、俺の胸の中はモヤモヤする。モヤモヤの原因がわかった。俺だって、イブ先輩が好きだ。今でも、キスされたときの唇の感触、長いまつげをはっきり覚えている。  一瞬、俺とイブ先輩はキスしたんだ、と直樹に話してやろうかと考えた。でも、そんなのは大人気ない。さらに話がややこしくなって、コンクール前だってのにいざこざが起きる。それに、もしも直樹がショックで問題行動を起こしたら、製菓部が廃部になるかもしれない。それだけは絶対に、避けないといけない。  それに――万が一、直樹もイブ先輩にキスされたことがあったとして、“だから何?”なんて返されたら…俺はショックで立ち直れない。  今後、製菓部はどうなるんだろう…。  準備室の先生に挨拶をして、俺は重い気持ちを抱えたまま、部室を出た。

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