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イブ-11
「ああ、新太からお礼言っといて。僕、急用を思い出したから、帰らなきゃ」
さすがに頭にきた。ガラス製のドアを押し開けようとした直樹の腕を、俺は無意識のうちにつかんでいた。
「離してくれない?」
「何だよ、その態度は! 剣先輩はもうすぐ来るんだから、挨拶ぐらいいいだろ! それに用があるだなんて…、今日はイブ先輩と出かけようとしてたじゃないか!」
「だから、急に思い出したって言ったじゃないか」
直樹は必死に俺の腕を振りほどこうとする。俺はそんなに力が無い方だけど、直樹はもっと力が無い。どんなにもがいても離すもんか。剣先輩に会わせてやる!
「嘘だ。今までだって、全部嘘だろ? イブ先輩の仕事がある日は全部、製菓部を休んでたじゃないか」
一瞬、ビクンと直樹の肩が震えた。あれだけあからさまで、バレていないとでも思ったのだろうか。
「今日だって、夏期講習があるからって休んだくせに、イブ先輩が来るって言うから駆けつけて、でも来れなくなったから急に帰る、なんて…」
ずっと直樹の腕をつかみっぱなしだった。このままだと痕がついて可哀想かもしれないけど、俺は直樹をそばの大きな柱の陰まで引っ張った。出入り口は、ほかの人の邪魔になる。
俺は一呼吸おいて、直樹と正面から向かい合った。
「直樹が製菓部に入ったのは、イブ先輩に会うため? イブ先輩に会うためなら、ほかの活動はどうでもいいのかよ。直樹の代わりに出てくれた剣先輩に、お礼の一言も無いのか?!」
「そ…そうだよ…」
直樹の唇が震える。
「イブさんに…近づきたかったから、製菓部を利用しただけなんだよ! だって、部員一人しかいない製菓部が、毎日生徒会にお菓子を届けてるって周りがみんな話してたから――」
俺の体が凍りついたみたいに固まった。手の力が完全に抜けてしまっていた。力がすっかりなくなった手を、直樹に思い切り振りはらわれる。
「ぼ…僕は…お、お菓子なんて興味ないっ! 家にいるときは毎日ママの手作りケーキばかり食べさせられて、でも本当はみんなみたいに、ポテトチップやハンバーガーやカップラーメンとか食べたかったんだよ! でもママが“ダメ”って言うから――」
直樹が製菓部に入った理由は、生徒会室に出入りできてイブ先輩に会うため、とは推測してた。けど本人の口から直接聞いてしまっては、ショックを隠せない。俺はもう言葉を返せなくなっていた。
「ああ、そうだよ! 夏期講習だっていうのも嘘だよ! コンクールなんて面倒だったんだ! でもイブさんが来るって言うから、終わる時間を見計らって来たのに…新太が…新太が早く連絡してくれないから!」
「だそうだぞ、イブ」
柱の方から声がした。振り向くと、俺が背にしていた柱の向こうから、剣先輩が顔を出した。手には携帯を持っていて、俺たちの方に向けている。画面を見れば通話中で、相手の名は「英夜(はなぶさイブ)」になっていた。
「……!」
今度は直樹の方が、言葉が出なくなっていた。
《直樹くん》
携帯電話から、イブ先輩の声が聞こえた。その声に、直樹は直立不動になった。
《嘘はいけないよ。それと、せっかく製菓部に入ったのだから、お菓子を好きになってほしいな。僕は、お菓子作りが好きな人のお菓子が、大好きだから。それと、虎牙に謝ってあげてね》
その言葉に、胸がキュッと痛くなった。えーっと…、イブ先輩はお菓子作りが好きな人が好き、じゃなくて。その人が作ったお菓子が好きなんだな。勘違いしかけてしまった…。
スピーカーからの声を聞き、直樹は青ざめた。目には涙を浮かべている。今まで嘘をつき、お菓子が好きじゃないのに製菓部に入り、今日だって嘘をついて剣先輩が出場する羽目になった、そんな直樹が大好きなイブ先輩に否定されたのだから。言葉は優しいけど、イブ先輩も怒っているかもしれない。
「僕…僕…」
もしや、また自分の都合のいいように言うのだろうか。ここまできて謝罪の言葉も無いとすると、もう直樹は救いようがない。俺だって、場所をわきまえず怒鳴るかもしれない。
「ご…ごめんなさい…新太…剣先輩…それに、イブさんも…」
直樹はあっさり、頭を下げた。それだけじゃなく――
「僕…製菓部やめます」
それだけ言うと、直樹は口元を真一文字に引き結んだ。決意の堅さが表れているようだ。
「直樹、別にやめなくても…。今までの嘘や、直樹の代わりに出てくれた剣先輩に対して謝ってくれたなら、それでいいから」
“ううん”と直樹は強く首を横に振る。
「イブさんは、お菓子作りが好きな人の作ったお菓子が好きなんだ。それは、僕のお菓子じゃない。僕はどうしたって、甘いお菓子を好きになれない…。今日だって家に帰れば…ママが作ったお菓子が…」
そんなに嫌なら、“甘い物はいらない”と言えば済むのに。誰だって好みはある。野菜や魚を何でも嫌いと言えば体に影響があるから、親は怒るだろう。でも嗜好品が嫌いなのは、人それぞれの好みだから仕方ないと思われるはずだ。
もしや直樹は、お母さんに逆らえないのだろうか。それとも手作りお菓子を断って、お母さんをガッカリさせたくないのだろうか。どっちにしても、直樹にお菓子を好きになってもらいそうにないだろう。これ以上、嫌いなお菓子を作り続けるのは苦痛に違いない。
「…わかった。夏休みが終わったら、退部届けを書いてほしい」
直樹はコクンとうなずくと、“さようなら”と出て行った。俺と剣先輩は、何ともいえない気まずい思いで直樹を見送った。
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