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第3章 闇よりも黒き淵  *6*

 食堂へ向かうため、ウルフはさっさと通路を歩いていってしまう。  ライブラリーを出てすぐに、カシスは彼を呼び止めた。 「ウルフッ」  どんどん先へ進んでいこうとする相手に駆け寄る。  カシスの声に歩を緩めたウルフは肩越しに振り返った。胡乱な眸がカシスを見やる。 「……なんだよ?」 「シア―――……シアは?」 「放っておけ」 「昼食なら一緒に…………」 「あいつは人の大勢いる場所が苦手だ。それに今はルナが相手になってる」 「…………」 「―――心配か?」  立ち止まったウルフが身体ごとカシスに向き直った。 「えらく気に入ったみたいだな。ライブラリーで仲良く談笑ってわけだ」 「話を聞かせてやれと言われたから、その通りにしてるだけだよ。どうこう言われる筋合いはない」  カシスは憮然と言い放つ。それがウルフの気に障ったらしかった。 「筋合い、ね……」  ウルフは不遜な笑みを口許に浮かべる。 「ずいぶんと偉そうな口をきくじゃねーか」  眸に剣呑な色を滲ませて、ウルフはカシスに近づいた。  一歩、また一歩。  息を呑みカシスはじりじりと後退さる。  奇妙に張り詰めた空気。  圧倒され、足が竦む。  すぐにも通路の壁に追い込まれ、カシスの逃げ場はなくなった。  ウルフが大きく一歩を踏み込み、カシスの両脇の壁へ手をつく。  壁を背にしたカシスはウルフの両腕に阻まれ、さらに逃げ場を失くした。うっかりすると触れてしまうほど近くに、互いの顔がある。  冷え切った眼差しが腕に閉じ込めたカシスを見下ろした。 「奴隷としての立場を忘れたとでも言いたいか?」  ゾクリとカシスの背が粟立つ。  ウルフに眸に宿る獰猛な気配。  不意にカシスは、シアが見せた傷痕を思い出した。 「シアの咽喉に…………」 「ああ、あれを見たのか」  一瞬揺らいだウルフの双眸が、さらに獰猛な色を滲ませる。 「―――俺がやったって言ったら?」  カシスの肩が大きく揺れた。 「ウル……フ?」 「奴隷の扱いなんてそんなもんだ。口答えは許さない。声が出せなきゃ愚痴のひとつも洩らせない。咽喉をすっぱりと切られて終わり。声帯がやられちまって、声なんざ出せなくなる」  感情を伴わない声がカシスに告げる。 「生意気な口は塞いでおくに限る、ってね」 「……ん……ッ、…………う……」  急な口吻けに、カシスは驚き身動いだ。  深く貪るような口吻けが、カシスの呼吸すら奪おうとする。 「ん……ん……」  覆いかぶさる身体を押し退けようと、カシスは必死に手を突っぱねた。その手を強い力で掴まれる。  長い口吻けを解かれると、カシスは荒い息の下から声を絞り出した。 「こ……なこと、俺じゃなくても…………」 「―――?」 「俺なんかを相手にしなくてもシアがいるじゃないかッ。シアはお気に入りなんだろ!? だったら気に入らない俺を相手にするよりずっと……!」 「例え冗談でも、シアにこんな真似したりしないさ」  ウルフは密やかな声で告げる。 「あいつは俺たちの仲間だ」  強く澱みのない声だった。 「お前とは違う」  カシスの眸が大きく見開かれる。  そうだ、違う。  自分とは違う。  人質として、奴隷として、この船に捕らわれた自分とは、シアの存在はあまりに違いすぎる。  シアの咽喉を傷つけたのはウルフではない。カシスには断言できた。  酷いことばかりを平気でする男だ。けれど惨たらしい傷つけ方を、相手に対してする男ではない。  ウルフの手に力がこもる。  隙を突かれる形で、カシスの身体は反転させられた。  壁に両手をついたカシスは、背後の存在にギクリと背を強張らせる。意図するところに気づき、悲鳴をあげた。 「離せ……ッ……イヤだ……ッ!」 「拒否できる立場かどうか、よく考えろよ王子さま」  ウルフの唇がカシスの耳朶を擽る。 「そーいや、『時間厳守』も守れなかったよな。お仕置きしてやるよ。ここでな」  意地悪な声と指がカシスを悦楽の渦へ引き込もうと蠢き始めた。

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