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第3話

――翌朝。  殴られた頬はきちんと冷やさなかったせいでものの見事に腫れてしまい、その顔を見た母親は卒倒しそうなくらい驚いた。  家族全員に理由を聞かれたけれど、本当の事なんて絶対に話せないので酔っ払いに絡まれたとだけ話すと、それ以上の追及はない代わりに、祭が終わるまで夜間外出禁止と未成年のようなペナルティを受けてしまった。 (こればっかりはしょうがないか)  自分でも鏡を見てみたけれど、かなり酷い状態で家族が心配するのも無理はない。  こんな顔ではバイトにも行けないので、腫れが引くまで二、三日休むと電話を入れた。  もともと知りあいのやっている定食屋でのバイトなので、こういう時は融通がきいて良かったと思う。 「健ちゃん、バイトお休みなら本殿のお掃除お願いしていい? お母さん、今日は婦人会の集まりで今から会館に行ったきりになっちゃうの」 「分かった」 「お供えは台所にあるから、持っていってね」  慌ただしく出て行ってしまった母親を見届け、台所に行くとテーブルにお供え物らしき果物が置かれていた。 「ありゃ、今日は油揚げじゃないのか」  昨日、笛吹と交わした約束を思い出したけれど、同時にあのキスまで思い出してしまい、顔が熱くなる。 (キスしたなら油揚げはなくてもいいか)  果物の入ったカゴを持った時、手が当たって隣に置いてあった菓子の袋が落ちて床に散らばってしまった。 「あちゃー……」  子供会で配ったお菓子の残りなのだろう。キャンディやチョコ、せんべいなどの種類が違う子分けのお菓子の中に、懐かしいビスケットの赤い袋を見つける。 「これ、好きだったんだよな」  見てしまうと無性に食べたくなるのはどうしてだろう。後で食べようと着ているパーカーのポケットに忍ばせてから、残りのお菓子を拾って台所を出た。  本殿へ入るとすでに父親が掃除は済ませてくれたらしく、棚がまだうっすらと濡れていた。 「掃除したんなら、一緒に供え物持っていってくれたらいいのに」  それを忘れたのだから、たぶん母親が言われたのだろう。  自分がどこか抜けているところがあるのは、絶対に父親譲りだと思いながらお供え物を並べていると、横から声が聞こえた。 「――なんだ、油揚げではないのか」 「うわああああああっ!」  畳に転がるように倒れて見上げると、腹の上に狐姿の笛吹が座わる。 「頼むからいきなり現れないでよ……」  両手で顔を覆い、大きく溜息をつく。笛吹のせいでここ数日で絶対に寿命が縮んでいる。 「これでも配慮してやっているのだぞ」 「は? どこが?」 「本来の姿だとお前が怖がるそぶりをみせるから、白狐の姿で現れているだろうが。俺のさり気ない気遣いを認めて欲しいな」  笛吹の言葉に、白狐が本来の姿じゃなかったのかと、新しい事実に目を丸くする。 「格好良いこと言ってるつもりだろうけれど、その時点で台無し」 「む。人間と言うのは難しいな。まあ、お前がそうやって笑っているなら俺は満足だ」  近寄ってきて、甘えるように健次郎の頬に頭を擦り寄せる。 (あー……犬を飼っていたら、こんな感じなのかな)  もともと動物は好きだし、いつか犬を飼いたいと思っていたので、その触り心地にうっかり手を伸ばして笛吹の身体を撫でてしまう。 「まあ、確かにこっちの姿は怖くはないけれど……」  可愛らしいし、柔らかな毛の触り心地もいい。  けれど狐が喋っているというだけで、恐怖の対象に変わりないという事に笛吹は全く気付いていないらしい。 「……ところで健次郎。俺は怒っているのだぞ」  大人しく撫でられていた笛吹がふいに顔をあげる。 「何に?」  自分が怒ることはあっても、笛吹に怒られる理由が思い浮かばない。 「昨夜に約束した、美味い油揚げとやらはなぜないのだ?」 「あっ、あれはキスでチャラになったんだろ!」 「何を言っている、供え物は別に決まっているだろう」 「欲張り!」 「この状況でそんな事を言っていいのか?」  笛吹がトッと健次郎の胸の上で立ち上がるのを見て、ハッとする。 (ここで人間の姿になられたら……マズイ)  完全に組み敷かれる自分を頭に浮かべ、慌てて身体を起こすとバランスを崩した笛吹がころんと畳に落ちる。 「危ないではないか!」 「そんなにお供え物が欲しいなら、これでも食ってろエロ狐っ!」  ポケットに入っていたビスケットの封を開けて、その中のひとつを笛吹に投げつけると、興味深々で匂いを嗅ぐ。 「何だこれは。油揚げの小さいもの……ではないな? 甘い匂いがするぞ」 「ビスケットのクリームサンドだよ」  仕事の後の楽しみに取っておいたのに早速開けてしまったので、健次郎もひとつ取り出して食べる。  口の中を切っていたのを忘れて砕いたビスケットが刺さり、痛さで肩を竦めている間に笛吹が食べ始める。 「ふむ……油揚げとは違うが、これも美味い」  神使にビスケットのお菓子なんてどうかと思うけれど、案外気に入ってくれたらしい。  機嫌が良いうちにと、残りのビスケットを笛吹の前に起き、健次郎は立ち上がる。 「それ、全部食べていいよ。じゃあ俺、まだやることあるから!」  逃げるように本殿から出て、今度は境内へと向かう。  暇なようで意外と神社というのは雑用が多い。 「まずは境内の掃除……っと」  竹ぼうきを持って参道の辺りをはいていると、見覚えのある酒屋の軽トラックが入ってくるのが見えて片手をあげる。  止まったとたん、運転席のドアが大きく開いて飛び降りるように勝が現れた。 「勝、こっち! 配達お疲れさん」  声をかけると、荷台のビールを取ろうとしていた勝がこちらを振り向いた。 「おー、健ちゃんもお疲れ……って、ええっ!?」  大きな声をあげた直後、こちらに向かって勝がすごい勢いで走ってくる。 「どーした?」 「のん気にどーした? じゃないだろっ、こっちが健ちゃんに聞きたいよ! どうしたんだよ、その顔っ!」  ガシっと顔を掴まれ、勝の手が腫れている部分に触れる。 「痛たたっ! 触ってる!」 「あ、悪ぃ。それにしてもすっごいな。誰にやられたんだ?」 「半分くらい、お前のせいだかんな」  勝に頼った自分も悪いけれど、勝が彼女に連絡をしなければと思うと、少しだけ恨みがましく思ってしまう。 「え。俺?」 「実はさ……」  事の顛末を話すと、事もあろうか勝は大きく吹き出す。 「ぶわっはは! 健ちゃん完全に間男じゃん! いやー、ドラマだけかと思ったら、そんなコトって本当にあるんだな」 「勝、笑いすぎ」 「これはもう、カミサマが童貞大切にしなさいって言ってんじゃね?」  軽い冗談で言ったのだろうけれど、あながち嘘じゃないので鋭いツッコミについ口を閉じる。  けれど、勝はそれを怒って黙ったのかと思ったらしい。 「ま、まあ、そのうち健ちゃんのコト大好きっていう彼女が現れるって。俺も探しといてやるから元気出せ!」  毎日ビールケースを軽々と持つ馬鹿力に、バンバンと励ましで背中を叩かれ、思わず前に吹っ飛びそうになるのを堪える。 「もう勝っ、ちょっとは力加減しろって」  体勢を戻して顔をあげると、勝がきょとんとした表情で一点を見つめている。 「ん?」  何を見つめているのかと思い、視線を辿っていくと、いつの間にか自分の足元に笛吹がいた。 「う、笛吹っ!?」  叫んでから、慌てて自分の口を手で塞ぐ。 (しまった! 勝には笛吹は見えないんだった)  どうしよう、何かうまい言い訳を考えないと。  冷や汗を浮かべながら勝の方を見ると、、彼は笑いながら健次郎の足もとにしゃがむ。 「へー、コイツ笛吹って名前なのか? 真っ白で綺麗なやつだなあ。健ちゃん家、いつの間にペット飼い始めたんだよ。いいな、ウチも犬欲しいぜ」  どうやら勝には笛吹は犬に見えるらしい。 (確かに狐と犬は同じ科だけどさ……)  あまり深く考えない勝の性格が心底うらやましい。  大人しく頭を撫でられている笛吹は、ものすごく不本意そうな顔をしていた。 「勝……見えるのか?」 「見えるどころか触ってるけど?」  笛吹が見えるなんて、一体どういう事だ?  茫然としていると、笛吹が助けを求めるようにこちらをチラリと見上げた。 「えっと、勝。配達はいいの?」 「あっ、やっば! 早く帰って来いって言われてたんだ。倉庫の方に運んどくから注文間違ってたら後で店に電話ちょーだい」 「う、うん……」  勝は一升瓶を何本も抱えて運ぶと、早々に軽トラで去って行ってしまった。 (お酒の数は分からないから、後で母さんに確認を頼むか)  一応、確認の為に倉庫の方へと足を伸ばそうとして、ふと大事なことに気付く。 「そうだ! なんで笛吹が見え……」  問いただそうと振り向くと、そこには笛吹の姿はなかった。 「……ったく、神出鬼没すぎだろ」  都合の悪い時は逃げるなんてズル過ぎる。  気が抜けてがっくりと肩を落としながら倉庫へと向かい、勝の置いて行った酒の確認を始める。  『奉納』と書かれたものばかりなのを見ると、祭用の献酒なのだろう。 「相変わらず、すごい数……」  けれど、いつもよりも倍くらい多いような気もする。 (本当、今年って何なんだ……?)  笛吹がここの神使を交代するのと、何か意味があるのだろうか。  また気になる事が増えて、無意識にため息がこぼれた。   ――祭りの前日。  忙しない空気がピリピリと伝わってきて、家の中にいてもなんだか落ち着かない。 (なーんか、変なんだよな)  一週間ほど前の朝から、肉も魚もない食事に切り替わり、飲酒も禁止令が出された。  父親いわく、お祭り前の精進料理とのことだけれども、宮司である父親だけやればいいのにと文句を言ったら、母親にやんわりと、こういうのは家族で助け合うものでしょと諭されてしまった。  毎年の祭の前はこんな事をしなかったのに、なんで今回だけ徹底しているのか気になる。 (――それに、笛吹が現れない)  勝が触っていたあの日から、全く姿を見かけなくなってしまった。  どうして自分以外の人間に見えたのか、結局聞けずにいるのも気になるけれど、見なくてホッとする半面、何かあったのかと少しだけ心配にもなっている自分の気持ちに困惑するばかりだ。 (結局、女の子とはできてないし)  頼みの綱の勝も祭の準備で狩り出されているので、今は女の子を紹介するどころじゃない状態らしい。  同様に自分も青年会の方での手伝いで毎日あちこちに奔放しているので、家に帰ると疲れてすぐに寝てしまう状況。  このまま敷かれたレールの上を歩く様に、笛吹と祝言とやらをあげる事になってしまうのかと思うとやりきれないけれど、自分でどうにかする術はない。 「さっさと祭、終わってくれ……」  そうすれば、こんな消化不良の気持ちもなくなるはずだ。  枕に顔を押しつけてベッドで突っ伏していると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。 「健、起きてるか?」  光一の声が聞こえて顔をあげると、ドアが開く。 「起きてるよ、何?」 「親父が話があるから本殿に来いって」 「こんな時間に?」  時計を見れば、もうすぐ日付が変わる時間だ。  明日は早朝から忙しいのに、父親がまだ起きている事に驚いた。 「なんか、祭の前に言っておきたい事があるみたいだよ」 「なんだろう、明日の段取りかなあ……」  何回も確認したし、不備はないはずなのだけど。 「さあ? 俺も呼んできてくれって言われただけだからさ」  光一も理由は分からないらしい。  部屋を出て外へと出ると、底冷えのする夜風に身体を縮めながら、境内を移動する。  参道には出店がずらりと並び、いつもとは違う神社の景色に少しだけ気分が高揚した。  本殿の前へとくると社を守る左右の狛狐の銅像に軽く会釈をしてから、中への階段を上がる。 「親父?」  厨子をあげて中へと入ると、父親は誰かと話している最中だった。 「あ、ごめんっ」  客がいるとは気付かなくて、健次郎は慌てて外へ出ようとして足を止める。 (ちょっと待て。こんな時間に客?)  それに、一瞬見た相手の格好は狩衣だったような気がする。神社で狩衣姿は珍しくもなんともないけれど、明日の祭で同業者が来る話は聞いていない。  そうなると、残る可能性はひとつ。 (まさか、笛吹……?)  しかも、狩衣の色は笛吹が着ていた白色だ。振り返ると、父親が不思議そうな顔をしてこちらを向いていた。 「健次郎、どうした? 早く入って来い」 「や、ええと……話し中だったら悪いかなって」 「気にするな。お前にも紹介したい人だ」 「紹介……?」  父親の影に隠れていた客人が健次郎の方へと前へ出る。 「あ……」  現れたのは亜麻色の髪の毛に薄っすらと赤い瞳の線の細い男性だった。切れ長の目や顔の作りがとても笛吹に似ているけれど、雰囲気がとても柔らかい。 「初めまして。白砂(しらさご)と申します」 「……耳と尻尾がない」 「こら、健次郎! まずは挨拶だろう!」  父親にゲンコツをくらい、無意識に零れてしまった言葉を謝罪する。 「す、すみません!」 「いいですよ。やはり、こちらの姿の方が見慣れていますか?」  にこりと笑うと、耳と尻尾が現れる。 「あ……やっぱり、狐なんだ」  いとも簡単につけたり消したりできるものなのかと、目を丸くしていると、父親が咳払いをする。 「白砂、先に自己紹介をしないと健次郎が驚くだろう」 「そうですか? たぶん、この姿の耐性は有ると思いますよ。ね?」  同意を促すように問われて頷くと、今度は父親が目を丸くする。 「どういうことだ?」 「っていうか、親父こそ白狐と面識があるなんて知らなかったぞ!」 「その話は長くなるから追々話すとして……それより、お前こそ白砂と会った事があったのか?」  その問いには白砂が先に答えてくれる。 「いえ、私とは初対面です。健次郎が会っているのは、笛吹の方ですよね」 「あ、はい……あのっ、白砂……様は笛吹を知ってるんですか?」  笛吹の名前を出すと言う事は、やっぱりこの人は笛吹の知り合いなのだろうか。 「ええ、とても……改めて自己紹介をしましょうか。私はこの社の御先稲荷です」 「えっ?」 「……とは言っても、明日までですが」 「明日……」 「そう、明日の祭で御先稲荷の交代が行われる。その前に、お前に話をしておかなくてはいけない事がある」 「な、何だよ……」  緊張した表情の父親につられるように、健次郎の表情も硬くなる。 「この百代神社には、代々宮司のみに伝えられる話がある。それは――」 「ちょっと待って!」  大きな声でストップをかけると、その音に驚いたのか白砂の耳が大きく動く。 「宮司のみに……って、そんな大事な話を俺に話していいのかよ」 「何を今さら。お前意外に誰がこの神社を継ぐんだ」 「だから、光兄が……っ!」 「光一は無理だ。新しい御先稲荷が選んだのは、光一ではなくお前だからな」 「なっ……」  ここにきてまで、笛吹のせいなのか。 (あの野郎、今度あったらどうしてやろう……)  沸々と怒りを貯めていると、白砂が申し訳なさそうに謝ってくる。 「うちの笛吹の我が侭のせいで、申し訳ないね」 「……そういえば、笛吹はどこにいるんですか?」 「勝手に君に会いに行ったお仕置きでね、ちょっと明日まで閉じ込めてあるよ。早く会いたかった気持ちは分からなくもないけれど、きちんと決まりを守らないと、これから上に立つ者として示しがつかないからね」  柔らかい笑顔でなかなか怖い事を言うのを聞いて、やっぱりこの人も神使なのだなと実感させられる。 「話が逸れたな。健次郎、話を続けても?」  この先を聞く事によって、自分はこの神社を正式に継ぐことになってしまうのだろう。 (けれど、聞くまで帰してくれなさそうだし……)  今まで逃げ回っていたけれど、今回ばかりは年貢の納め時というやつかもしれない。  父親とこの社を守る御先稲荷、二人に見つめられているのも息苦しくなり、健次郎は渋々と頷くと、父親は晴れやかな表情になる。 「そうかそうか、やっと承諾してくれたか!」 「良かったな、これで我が社は百年安泰だ」  自分が継ぐことを決めただけで、なんで大の大人二人がこんなに手放しで喜んでいるんだろう。 「あのさ……なんで俺が宮司になるだけで、百年安泰なわけ?」  やや白けた視線を向けていると、それに気付いた父親が気まずそうに咳払いをする。 「あー……その説明を今からしようと思っていたんだが、残念ながら時間切れだ」 「はぁ?」  わざわざ呼び出しておいて、話の核心を聞かないまま時間切れと言われても納得がいかない。 「お前が色々と話を脱線させるから」 「俺のせいかよ!」  親子喧嘩が勃発しそうになったところを、白砂が間に入る。 「ほら、楽しい事は後に取っておいた方が幸せも倍になるって言うし、ね?」 「……白砂様が笛吹の血縁だっていうのが良く分かったよ」  なんだか怒る気も失せてしまった。  ため息をつくと、白砂の手が伸びてきて健次郎の頭を撫でる。 「明日はうちの笛吹をよろしく頼むよ」 「は、はあ……」  一体何があるのか分からないのに、頼むと言われても困る。ぽかんとしているうちに頭に乗っていた手は離れ、白砂は父親の方へと顔を向ける。 「では、また後で」 「ああ、最後の仕事よろしく頼みます」  父親が深く頭を下げると、白砂は姿を消した。 「よし、俺たちも家に帰るか。明日は朝から忙しいしな。お前にもたくさんやって貰う事があるぞ!」  豪快に笑いながら、健次郎の背中を何度も叩く。 「……ほんっと、ゲンキンだな親父」  祭の日でも、基本的に日課は変わらない。  早朝から境内の掃除をしている間に、父親は朝の祈祷をあげる。 「あー……眠い」  身を切るような寒さに耐えられないので、マフラーをグルグルに巻いた状態で竹ぼうきではいていると、父親の祈祷の声が聞こえてきた。  何気なく本殿の方へと視線を向けると、賽銭箱の前に立っている白砂の姿が見えた。 「おはよう、健次郎」  ひらひらと手を振られ、頭をさげる。 「おはようございます。白砂様もお仕事ですか?」 「そう、祈祷をあげてくれているのに、聞いてあげないと可哀想でしょ? この声も、今日で聞けなくなるのはちょっとさみしいけどね」 「……そういえば、白砂様は笛吹と交代したらどうなるんですか?」  少しだけ気になっていたことだ。  この社を守る御先稲荷はひとりだけ。そうなると、後退した先代はお役御免になる。  その狐の行先は――? 「おや、心配してくれるのかい? 笛吹には勿体くらい、優しい子だね」 「すみません、変な質問をして」 「構わないよ、不安はなくしておいた方がいい。笛吹と交代した後は、あちらの世界で私の伴侶と隠居暮らしを楽しむ予定だよ」 「あ……そうなんですか」  最悪な答えを予想していたので、幸せな回答が返ってきてホッとする。 「百年働いたから、そのご褒美だね」 「はは……お疲れ様です」  百年なんて気の遠くなる月日を過ごすことがどれだけ大変か分からないけれど、勤め上げた白砂を尊敬してしまう。 「健次郎も今日から色々と大変だと思うけど……頑張って」 「その色々に何が含まれてるのか、俺は不安で一杯ですけどね」  結局、あの後父親に問いただしてもだんまりをされてしまい、話してくれなかった内容が気になってあまり眠れなかったせいで寝不足だ。 「まあ、本番は夕刻からだから、それまでは祭を楽しんでおきなさい……と、祈祷が終わったようだね」  いつの間にか、父親の声は聞こえなくなっていた。 「あ、やばっ! もうすぐ集合時間だ。失礼します!」  白砂に軽く会釈をしてから、健次郎は会館の方へと走る。  あと三十分もすれば青年会のみんながやってくるので、準備をしておかないといけない。  祭の警備や、神輿のルートの確認、祭のクライマックスにある餅まきまで気の抜けない一日が始まる。 (……とりあえず、目先の事を頑張らないと)  跡を継ぐと決めたからには、きちんと仕事をこなさなければ後援会の年寄りたちに駄目な跡取りと認定されてしまう。  笛吹との事は、祭が終わった後にゆっくり考えればいい。 「……よしっ、頑張る!」  パチンと両頬を叩き、気合を入れた。  空にかかっていた薄紫のカーテンがだんだんと藍色に変わり、境内には豆電球の暖かそうな光が灯って、境内は幻想的な空間へと変わっていた。  参道には夜店を楽しむ人たちで溢れ返っていたけれど、餅まきが終了したとたん、蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまった。 「祭の後、かあ……」  残っているのは後援会や青年会の人間と、屋台を片付けている人のみだ。  賑やかだった分、どこか物寂しさを感じる様子を拝殿にあがる石階段に座って眺める。 「なーにセンチになってんの?」  健次郎も着ている神社の神紋が背中に入った法被を肩にかけた勝が声をかけてきた。 「祭が終わって寂しい?」 「馬鹿、違うよ。疲れてるだけ」 「健ちゃんあちこち走り回って頑張ってたもんな。お疲れさん」 「勝も手伝いありがとうな。ほんとお疲れ……」  今ならこの場所で寝れるとさえ思う。  ぐったりと膝に頭をつけて俯いていると、勝が笑う。 「まーまー、これから打ち上げだし、パーっと飲もうぜ!」 「そうだな……」  久しぶりに会うメンツもいるし、笑って美味しいお酒を飲んで、今日はぐっすり眠れそうだ。 「後片付けしたら、そっちに顔出すよ」 「は? そういうトコ地味に真面目だよなあ、健ちゃん。ちょっとだけ飲んで、それから片付ければいいじゃんか」 「うわ、ちょっと勝!」  グイッと腕を引っ張られて立ち上がらせられると、石階段を下り、打ち上げの場所になっている会館の方へと連れて行かれてしまった。  会館につくと、すでに出来あがっている年配勢が自分たちを見るなり、一升瓶を片手に集まってくる。  辺りを見たけれど、父親の姿はまだ見えない。 「ほれ、まずは一杯呑め呑め!」 「わー、あざっす!」  紙コップになみなみと注がれた日本酒を、勝は大喜びで飲み始める。 (さすが酒屋の息子)  健次郎もそこそこ飲めるけれど、疲れていておまけに空きっ腹の状態だ。勝の様に飲んだら速攻で酔うだろう。 「ほら、健次郎もぐいっと」 「う、うん……」  促されて紙コップに顔を近付ける。日本酒特有のふくよかな香りを嗅いだだけで、すでに楽しい気持ちが湧きあがってきて、こういう宴会の席でのお酒の力は偉大だと思う。 (祭が終わったんだし、お酒解禁してもいいよな?)  口をつけようとしたその時だった。 「――おい、何をしてる」 「……うわっ!」  背後から思いっきり引っ張られ、その反動で酒が床に零れる。 「ちょっ、何すんだよ!」  せっかくの祝い酒が!  怒りを露わに振り向くと、そこには父親が立っていた。 「お、親父!? なんだよ、祭は終わったんだから、酒飲んだってもういいだろ?」 「まだ終わっとらん! 来いっ!」  悔しいけれど、父親の腕力に勝てるわけもなく、されるがままに猫の子のように襟を掴まれて、家まで引きずって来られてしまった。 「もう何なんだよ親父! せっかく打ち上げしてたのに!」  あれでは打ち上げの楽しい空気も台無しだ。 「話は後だ、お前は風呂に行って来い」 「へ? 風呂? なんで?」 「いいから行け!」 「うわっ!」  投げるように脱衣所に押し込められ、大きな音を立ててドアが閉まる。 「……ったく、なんだってんだよ」  どうしてあんなに目くじらを立てられなきゃいけないのか。理不尽な怒られ方にブツブツと文句をいいつつも、服を脱いで浴室へと向かう。  何で風呂に入れられたのかは良く分からないけれど、走り回って汗をかいたので、風呂でさっぱり出来るのは嬉しい。 「あー極楽う……」  湯船に浸かり、言いようのない充実感にうっとりとしながら目を閉じる。心地良いお湯の温かさについウトウトとしていると、曇りガラスのドアの向こうから自分を呼ぶ母親の声が聞こえた。 「健ちゃん、寝てるの?」 「……っ! ね、寝てないよっ!」  半分くらい沈みかけていた身体を引っ張り上げて大声で返すと、見抜かれていたのか母親が笑う。 「着替え置いておくわね」 「う、うん……ありがと」  帰ってくるなり風呂場に直行されたので、着替えを用意してないのは当然なのだけれど、まさか母親が持ってきたという出来事にちょっとビックリする。 (普段なら、タオル一枚で歩いても別に何も言わないのになあ……)  祭の日だし、跡継ぎとして紹介したい客人でも来るのだろうか。  それだったら、タオル一枚の男がいたら失礼に当たるだろうし、納得がいく。 「接待とか嫌だなあ……」  人見知りという訳ではないのだけれど、年配の人は話が長いからそれを笑顔で聞いていなきゃいけないのが辛い。  だったら町内会の知り合いがたくさんいる打ち上げの方に出たいのが本心だ。  なんとなく出たくなくて、あがりかけていた身体を再び深く湯船に沈める。  子供の様にブクブクと泡を吐いて、しばらく頭の中を空っぽにしていたけれど、あまり長居をしていると逆上せそうだったので、重い腰をあげて風呂から出る。 「ん……? なんだこれ、浴衣?」  真っ白な着物は、浴衣と言うよりは襦袢のような薄さだ。  寒さに肩を震わせながら廊下を歩き、自分の部屋に行って着替え直そうとしたところを、父親に捕まった。 「やっと出てきたか、こっちに来い」  手招きされて居間へと行くと、床に色々な物が散らばっている中に母親がいた。 「母さん? 何この散らかりっぷり……」  唖然としていると、母親はいそいそと着物を持って健次郎の背後へと回る。 「健ちゃん、これに手通して」 「え? あ、うん」 「次はこっち」 「う……ん?」  言われるがままに袖を通すと、母親は慣れた手つきで帯を締め始める。  視線を下に向け、自分が何を着せられているのかを見ると、うっすらと桜の様な花が描かれた白い着物だった。 「ねえ、なんで俺こんなの着させられてんの?」  なんだか嫌な予感がして、母親に声をかけてみた。  白い着物は結婚式か仏事がどちらかの時しか着ないというのは、さすがに知識として知っている。  それを着させられていると言う事はつまり、前者な気がして今すぐ脱ぎたい。 「あら? 昨日の夜にお父さんから聞いてないの?」  頷くと、母親はにっこりと笑う。 「健ちゃんにこれ着せろって言われただけで、お母さんも実は何があるのか聞いてないのよー」  のんびりと答えが返って来て脱力していると、頭に銀色のショールの様なものを被せられる。 「これで完成。あらあら、意外と似合うのねぇ……綺麗よ健ちゃん」 「……母さん、本当に何も知らないの?」  息子に綺麗なんて言葉を使うなんて、実は色々と知っているんじゃないだろうか。  探る様に言葉をかけてみたけれど、母親は笑顔のまま何も言わない。 (母さん、こういう時は頑固なんだよな)  父親に口止めでもされているのだろう。  ここまできたら、さっさと話を聞いた方が精神的に良い気がする。 「俺、この後どうしたらいいんだろ……」 「そのうちお父さんが迎えにくると思うから、ここで待ってなさい」 「分かった」  つまり、この部屋から出るなという意味を含んでいるのだろう。  ソファーに腰こしかけると、風呂の後のせいか睡魔が襲ってくる。 (呼ばれるまで……ちょっと、だけ)  重い瞼はあっと言う間にくっついて、健次郎はゆっくりと眠りへと落ちて行った。

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