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第8話(2章)

 ――背中が痛い。  固い地面で寝ていたせいだろうか。それにしては、局所的な痛みが途切れ途切れに襲ってくる。  何かおかしい。そう思ったフィオはうたた寝の淵から這い上がり、うっすらと眼を開けた。  ぼんやりとくらい部屋に視線を彷徨わせると、その人物はすぐ後ろにいた。 「アカネ…何をしている……?」 「あんたを起こしてんだよ」 「……貴様、この私を蹴るとは……良い度胸だな」  容赦なく背中を蹴飛ばしているアカネに、怒気を孕んだ声をぶつける。いつになく機嫌が優れないのは、やっと深くなってきた睡眠の途中で無理やり覚醒させられたからだ。  そうでなくても朝は眠くて苛々するのに、こんな起こし方をされてはたまらない。 「昨日言っただろ、明日は早いって」 「全く……こんな固い土の上ではおちおち寝ていられなかったぞ」 「知るかそんなこと。良いから起きろ」  フィオはしぶしぶ身体を起こし、寝ぼけ(まなこ)を擦りながら大きな欠伸(あくび)をした。口の割にだらしないな、と嫌味を言われても気にならないほど眠くて頭が働かない。 「……何だ、レノルフェは」  レノルフェはまだ寝ているではないか。そう言いかけて言葉を呑み込んだ。眼は(つぶ)っていて眠りの中にいるようだが、寝息とは別に喘鳴(ぜんめい)が混じっている。たまに咳もしていて寝苦しそうだ。 「レノはいいんだ。行くぞ」 「あ、ああ」  外に出ると、瑠璃(るり)色の空が二人を待ち受けていた。 「まだ夜も明けていないぞ。こんなに早くから何をしに行くんだ?」  照明を火に頼っているのは王宮でも貧民街でも変わらないから、フィオも日の出入りに合わせた生活を送っていてた。  それでも(あかつき)(こく)に起きたことはない。 「市場(いちば)は夜明けと共に動き出すからな」  なるほど、市場に買い出しにでも行くのか。庶民に混ざって買い物などしたことがないから興味がある。ならばせめて、それに相応しい準備をしなければ。 「先に顔を洗いたいんだが」 「オレもそう思ってたところ。来いよ、川があるから案内してやる」  アカネは一度フィオを振り返ってから足早に行ってしまった。  こうして独りで歩く小さな背中のたくましさには感服するばかりだ。  しばらく貧民街の細い道を歩いていると、どこからか水の流れる音が聞こえてきた。さらさらと、ゆっくり流れていることが見なくても分かる、朝凪のように静かなせせらぎが。 「ほら、着いたぞ」 「これは……」  フィオは目の前の光景に、寝起きでぼんやりしていた頭がすーっと醒めていくのを感じた。本当に、貧民街(ここ)は何度も予想を裏切ってくれる。 「貧民街にも、こんなに綺麗な所があるんだな」  こちら側は砂利で埋まっていて、フィオの身長の五倍はありそうな川の対岸には草木が生い茂っている。川底が見えるくらい透き通った水は、夜明け前の空を反射していた。 「水がないと生きていけないだろ。だからレノが、ここだけは汚すなって皆に呼びかけてんだ」  言われてみれば、がらくたやネズミの死骸が転がっていた通りとは打って変わって川辺には魚の骨すら落ちていない。 「前はレノが貧民街(ここ)を仕切ってた。でもそれが難しくなったから、今度はオレがレノの役に立ちたいんだ」 「そうか……」  この少年は、本当に自分より年下なのだろうか。  徐々に白んできた空に向かって堂々と立つ姿は、王子であったフィオよりも勇敢に見える。アカネには、狭い王宮で育ったフィオにはない凜々(りり)しさがあった。 「フィオ、ちょっと待ってて」 「? ああ」  何かを見つけたのか、アカネが上流に向かって歩き出した。フィオも後を追うが、そこにいたのは中年の男性だった。手に木桶のようなものを持っている。 「おい、そこのじーさん! 川にゴミ捨てるなよ」  アカネの声に飛び上がった男性は、桶を放り出して一目散に逃げていく。そこをすかさず、アカネの白くて細い腕が彼の行く手を阻んだ。 「待てよ、ここにゴミは捨てない決まりだ」 「いたたた、なんだお前――その黒髪、レノルフェのところのガキか」 「何のためにレノが川を綺麗にしようって行ってるのか分かんねーのかよ、おっさん。あとオレはガキじゃない」 「うるさい、子供は黙ってろ」 「ッ!」  男性が手を振り払った弾みで、アカネの身体が地面に投げ出されてしまった。その隙を突いて男性はその場から走り去る。 「くっそ……」 「アカネ、大丈夫か?」  駆け寄って手を差し伸べるが、まるで視界に入っていないかのように独りで立ち上がる。余計なお世話だと思われているのかもしれない。

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