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第9話
「……平気。市場の前に、これゴミ捨て場に置いていくぞ」
アカネは男性が放っていった桶を拾い上げた。中には生ゴミが入っている。
「なら俺も一緒に行くよ。ついでに貧民街を案内してもらえないか?」
「市場の時間があるから案内は後でな」
何事もなかったかのように振る舞うアカネだが先程のような覇気はなく、どことなく落ち込んでいるように見える。報われない環境でも精一杯生きて、兄の代わりを務めようとしているところが健気だと思うと同時に、身体が勝手に動いていた。
「アカネは偉いな。そうやっていつも頑張っているんだな」
「な……、っ」
頭に手を置いてそっと撫でたら、なぜか顔を真っ赤にしてフィオのことを見上げてきた。眉をつり上げ、何度も口を開けたり閉じたりしている。子供扱いしたと勘違いさせてしまっただろうか。
「ご、ごめん。俺、小さい頃はよく母にこうしてもらっていたから、つい」
昔はフィオが武術大会で優勝したり、学校で優良生徒に選ばれたりする度に、母が頭を撫でてくれた。父と過ごした時間が少ない分、母はフィオをとても大切に育ててくれた。
もう過去の話だが。
「フィオのお母さんって、どんな人?」
「とても優しい人だったよ。俺に愛情をたくさんくれた。――三年前に病で亡くなってしまったが」
「……そっか」
母が亡くなった時は、一日中部屋に閉じこもるほど落ち込んだ。唯一の理解者を失った悲しみと、そんな状況でも家族より王政を優先する父へのやるせなさで、フィオの心はずたずただった。
今はもう立ち直っているが、相変わらず父のことは好きになれない。
フィオの話で重くなってしまった空気の中を、冷たい風が横切っていく。
何と言って元の雰囲気に戻そうか考えあぐねていると、アカネがフィオの手からするりと抜け出した。
「変なこと聞いて悪かったな」
「いや、そんなことはない。気にしないでくれ」
「なら早く顔洗って市場行くぞ」
本来の目的を忘れかけていたフィオは、川岸にしゃがんだアカネの隣に腰を下ろした。
「この水は飲めるのか?」
「当たり前だろ。何のために綺麗にしてると思ってるんだ」
「そうだったな」
川の中に手を入れると水が肌を刺すように冷たくて。
手で器を作ってそれを掬い、思い切って顔に押し付けた。一回では足りず、邪念を払うように何回もばしゃばしゃと顔を洗っていると、飛沫 が服に跳ねてしまった。
「ちょ、こっちまで飛んできてるぞ」
「あ、ごめん――うわ! 何をするんだ」
アカネの方にも水が散ってしまったようで。仕返しとばかりに手を水面に叩き付けて水しぶきをかけられる。顔と言わず服まで濡らされてしまったフィオは、またやり返すように手で川面 を切って派手に水柱を上げた。
「ッ! やったな……それ!」
「おい、俺はこんなに濡らしてないぞ」
次第に水の掛け合いは熱気を帯びてきた。フィオが浴びせればそれ以上の水が返ってくる。
そうしているうちに躱しきれない量の水をかぶってしまい、フィオは全身びしょびしょになってしまった。アカネは髪こそしとどに濡れているが、服は所々飛沫が散っている程度だ。
「オレの勝ちだな」
「こんなものに勝敗があってたまるか」
「じゃあちゃんとした勝負しようぜ! ゴミ捨て場まで競走な」
「え? あ、アカネ!?」
気が付くと横にもうアカネはおらず、桶を引っ掴んで駆けだしていくところだった。出遅れたフィオは慌ててその背中を追いかける。
「先に行くなんて狡(ずる)いぞ」
「悔しかったら抜いてみろよ」
「望むところだ!」
朝日が顔を覗かせる空の下を、二人は疾風のように駆け抜ける。まだ冷たい空気を全身に浴びていると何だか心が落ち着かなくなってきた。身体の表面は冷えているのに、奥から火のように熱いものが湧き上がってくる。
(そうか、楽しいんだ。俺は今、新しい世界で初めてのことを経験して、子供のように喜んでいる)
歓楽の正体に気付いた途端、自然と笑みが零れてきて。
「ふっ…はは、あははは!」
「なにいきなり笑ってんだよ」
「こんなにはしゃいだのは初めてだ。あの窮屈だった暮らしが嘘のようで、すごく楽しい」
王宮には自分と気軽に遊べるような子供はいなかった。いつも独りで幼少期を過ごしてきたフィオは、その時間を取り戻すかのように、涙が出るほど笑った。
「変な奴」
こちらを振り返りながら走っていたアカネの声が、風に乗って耳に届いてくる。
アカネもまた、フィオと同じように笑っていた。
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