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第17話(3章)

「なあフィオ、ほんとに良いのか?」 「ああ。俺はもっと貧民街のことを知りたいんだ」 「あんたみたいな坊ちゃんにとっては、目も当てられないような酷い所もあるかもしれないぜ」 「だとしても、ここに身を置く以上、詳しくなりたい」  レノルフェが倒れてから五日後。幸い風邪だけで済んだらしく、先程様子を見てきたら熱はもう下がっていた。  もう少し早く治ると思っていたが、お世辞にも衛生的とは言えないこの場所で、悪化することもなく回復したのだから上々だろう。  一段落ついたところで、フィオは再びアカネに貧民街の案内を頼んだ。最初の方こそ渋っていたアカネも、何度も願い求めるフィオにようやく折れてくれた。 「しょーがないな、はぐれるなよ」 「あ、ありがとう!」  こうして広い貧民街をあちこち歩いて回っているのだが、アカネはその時々で思いついた場所に行っているようで効率の悪い回り方をしている。 「なあアカネ。この商店はさっき来た賭博場(とばくじょう)に近いんだから、遠回りしてまで炭屋に行く必要はなかったのではないか?」 「うるせえな、オレだって色々考えてんだよ」 「何がそんなに気になるんだ。俺なら大丈夫だぞ」  ここでの生活ももうすぐ一週間になる。あまりに貧しい暮らしぶりに驚くことも多かったが、そろそろ順応してきてちょっとやそっとの事では動揺しなくなってきた。ずっと行動を共にしてきたから、フィオが見る景色もアカネが見ているものに近付いているはずだ、と高を括っていた。 「向こうには何があるんだ?」 「おい、そっちは――」  細い道の先が気になって、ぬかるんだ土の上を進んでいく。ここ二、三日でどろどろの地面に足を取られて転ぶことがなくなっていた。  木の板を(つづ)り合わせただけの小屋の合間を縫って奥へ奥へと進んでいくと、異様な匂いが立ちこめてきた。  生臭いような、何かが腐ったような鼻をつく匂いにフィオは堪らず手で口元を覆う。それでも喉の奥から吐き気がこみ上げてきて、気分が悪い。 「?」  足下からピチャッと濡れた音がしたので見てみると、赤く透き通った液体が前方から流れ出していた。それでも足を止めなかったのは、好奇心が強かったせいだろう。やかましく飛び回る(ハエ)を手で払いながら、地面を細く走る赤い小川を追っていく。  途中からあまりの臭さに息を止めて。刃物で何かをこそぎ落とすような不穏な物音がする方へ目をやると。 「――ぁ…あ……」  川の源泉は大きな樽だった。痩せ細った男性が樽に手を突っ込んで何かを洗っている。中身は見えないが、男性が手を動かす度に鮮やかな赤い水が溢れ出してくるのだ。  すると、喪心(そうしん)したように立ち尽くすフィオの視界が、突然真っ暗になる。  ついに気絶してしまったのかと他人事のように考えていたら、耳元から響く声に呼び戻された。 「あんたみたいに高貴な人の眼には合わないだろ」 「……アカネ?」 「こっち来い」  片手で目隠しをしながらフィオの肩を抱き、来た道を引き返していく。身長差のせいで斜め上を仰ぐ姿勢になったが、アカネが歩調を合わせてくれているのか躓(つまづ)かずに匂いがしない所まで戻ってこられた。  手が外されると、灰色の空がフィオを待ち受けていた。 「ぅ……っ」  視覚を取り戻したフィオは、ここがいつもの貧民街だと認識した途端その場にへたり込んでしまう。頭の奥がずきずきと痛んで、足に力が入らない。 「はぐれるなって言っただろ」 「ごめん」 「大丈夫……じゃねえよな」 「少し、休ませてくれ」 「だったらしばらくそこに居ろ」 「え?」  そばに居てくれないのか、と反射的に思ってしまった。今置いていかれたら、恐怖と心細さでどうにかなってしまいそうなのに。  フィオに背を向けるアカネの手首を咄嗟に掴んでいたのは、無意識のうちに身体が動き出していたからで。 「俺から、離れないでくれないか」 「こんなとこじゃ休みにくいだろうから、別の場所を探してこようかと思ったんだけど」 「いらないから、ここに居てくれ。頼む」  俯いたままで情けない声を出すフィオを、どんな気持ちで見ているのだろう。アカネは隣に腰を下ろすと、はぁっと溜息をついた。 「あそこでは山羊(やぎ)の皮を剥いでるんだ」 「山羊の皮?」 「羊皮紙(ようひし)にするんだよ」  紙が流通しても尚、王宮の公文書や歴史書、法典などには羊皮紙が使われている。普段何気なしに使ってきたものが、あんなに残酷な方法で作られていたなんて。

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