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第35話

   ***  一階の勘定台(カウンター)の奥にあったのは浴室で、そこで身体を洗ってから二人は店を出た。フィオはひとまずハンスと話がしたくて、もう一つの店に行くことにした。彼は基本的に朝と夜はこちらで、昼間は王都の外れの方の店にいるのだという。教えてもらった近道を通ると、そこへはすぐに辿り着いた。 「アカネはここで待っててくれないか?」 「聞かれちゃまずい話でもするのかよ」 「……ハンスと気まずい空気になるのは嫌だろう?」  実際は、レノルフェもあの仕事から遠ざけるつもりだった。弱った身体に負担をかけることはさせたくないから。ただ、二人とも互いがハンスの店で働いていることを知らない。それはどちらにとっても知られたくないことだろうから、フィオとハンスだけで話す必要があるのだ。  どうにかアカネを説得して中に入ると、案の定彼は勘定台(カウンター)に居て、金を数えていた。 「やぁ、レノルフェのところの。銀髪高く売れたよ、ありがとね」 「今日は貴方に話があるんだ」 「なに? 改まっちゃって。ひょっとして昨日のこと? 小屋で僕とレノルフェが――」 「それもあるが、アカネの話をしたいんだ」  ハンスの片眉がぴくりと上がる。その顔から、微笑が消えた。 「なんだい、言ってごらん。ファルスム・カーリターテのことだよね」 「ファルスム・カーリターテ?」 「あの店の名前だよ。ま、看板なんて出せないから知らなくて当然か」  ここも例外ではないが、彼が非合法の店で大っぴらに看板を掲げるほど考え無しの人物には見えない。勘定台(カウンター)に並ぶ金貨の枚数からも、彼がやり手であることは明らかだ。  こういう、穏やかな顔をして実は腹黒そうな人は苦手だったりする。 「さっきファルスム・カーリターテでアカネに客を取らせていただろう。あの客は俺が追い返してしまった。済まない」 「それはまた勝手なことをしてくれたね。商売上がったりだよ」 「だから謝っただろう。それから、アカネを働かせるのはやめてほしい。レノルフェも」 「心外だなぁ、僕が無理やり働かせてるみたいじゃないか。二人ともお金が無くて困ってたから仕事を紹介してあげただけだよ。むこうから辞めたいって言われたこともないし」  飄々(ひょうひょう)とした態度を崩さないハンスに、フィオは冷静でいるよう努めた。そうすることで簡単に言葉で言い負かされてしまいそうな不安を追い払う。 「二人は言ってなくても、辞められない雰囲気にしてたんじゃないのか」 「うーん、アカネには『辞めたらレノルフェを助けられないし、こんな割のいい仕事今のうちしか出来ないよ』くらいのことは言ったかな。でも本当のことだし」 「いくら貴族も利用している店だからといって、子供に体を売らせるのは犯罪だぞ」 「あのねぇ、僕はこれでも貧しい人を助けようとしてるんだよ。僕の元で働けば、貧民街でゴミを漁るよりもいい生活ができるんだ!」  犯罪、と聞いて逆上したのか、ハンスの手が勘定台(カウンター)を叩き付ける。その弾みに金貨が何枚か転がり落ちてしまった。 「俺なら違う方法で貧民街の者達を助けてみせる」 「ふふっ、さすが王子様は言うことが違うね」 「!」  金貨が、フィオのつま先に当たってぱたりと倒れる。フィオの顔も青ざめて、血の気が失せていった。 「な、何のことだ」 「今王宮は大変なことになってるんだってね。お得意様に王宮仕えの兵士がいるんだけど、彼がぼやいてたんだよ。王太子殿下が行方をくらませたって」  怯えを感じて半歩後ずさると、ハンスが勘定台(カウンター)から出てきてフィオの正面に立つ。  出口までは近い。逃げられそうで、逃げられない。  何が邪魔をしている?   恐怖だ。足が竦んでいるせいだ。 「レノルフェとアカネは今日限りで辞めてもらって構わないよ。代わりはいっぱいいるからね」 「それはどうも……」 「あと、その兵士は昨夜も来て今朝帰ったばかりなんだけど、こないだ良い銀髪が手に入ったのを自慢したら飛び出して行っちゃった。どこに行ったんだろうねぇ」  ――まさかこの男。  だとすればアカネとレノルフェが危ない。王子が貧民街の一角で発見された、なんて王宮どころか王都中が大騒ぎだ。いや、大騒ぎで済めばいい。一週間以上見つからなかったのだから、二人に誘拐の疑惑がかけられるかもしれない。 「あ、あの…俺、もう行かないと」 「そぉ? じゃあまたね」  ハンスの言葉を聞き終わらないうちに、店の外へ躍り出た。  そこにいたアカネが不審げにフィオの顔を覗き込む。 「びっくりした。そんなに慌ててどうした?」 「アカネ……ごめ…ごめん!」 「フィオ!? どこ行くんだよ」  状況を説明することを放棄して、貧民街に向かって走り出した。  自分がラジオーグの王子であることを伝えるべきだろうか。  そんなことはない。追っ手が来る前にフィオが自ら捕まりに行けば、二人が厄介事に巻き込まれずに済む。  ずっと一緒に居ると決めたのに、もう叶わなくなるだろう。それでもアカネに危害が及ぶことだけは避けたいから、この身体くらい犠牲にできる。 「フィオ、待てよ!」  最近王宮のことを考える余裕なんてなかったし、自分でも驚くほど上手く脱出できたので、完全に逃げ切れたと思っていた。捕まるまで迷惑をかけないようにしてきたつもりが、捕まること自体が一番二人に迷惑がかかると思い至るまで、こんなに時間がかかるとは。 (俺、本当に馬鹿だった。アカネの言う通りだ)  やりきれない想いが押し寄せてきて、情けなくなる。 「待ってフィオ、フィオ……!」  そんな、泣きそうな声で呼ばないでくれ。  何も言えないことを許してほしい。自分が王子だと知ったら、アカネはどんな顔をするだろう。  怖くて、考えられない。

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