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第7話

 長い夢を見ていた。  創一の部屋の匂い、棚に揃う本のラインナップ、窓枠の長さと合っていない短すぎるグレーの遮光カーテン。十年以上も前の出来事なのに、昨日のことのように、夢は鮮明だった。 「あ、起きた?」 「ここは?」 「煌先生んちだよ。食堂で喋ってたら途中でパタンって寝ちゃったから、連れてきたの。鍵、テーブルに置いとくね」 「ごめん。ありがとう」 「全然いいよ。それより起き上がれる? はい水」  コップを渡されるとき指が重なり、弾かれたように手を引いてしまった。先ほど見た夢のせいでまだ頭が混乱している。そして海広の体温が水の温度とあまりに違うせいでもある。 「大丈夫。ゲイだからって、誰彼構わず取って食ったりしないよ」  なんでもないように海広は手を目の前で振った。 「当たり前だ! 襲う方には選ぶ権利がある」 「なんでそこ、俺の擁護なの」  目の前の海広を差別してるわけじゃない。ただ、ゲイという告白と、創一との記憶が過剰に摂取したアルコールによって重なってしまっただけだ。訂正したかったが、理由を説明するとなると創一のことから話さなければいけなかったから、それだけはどうしても嫌で煌は口をつぐんだ。  代わりに渡された水を飲み干す。  海広は煌の意図を知らずとも、咎めないの意味で軽く笑ってくれた。 「聞いていい?」 「ん?」 「いつから公言してる?」 「ゲイだって?」  頷く。 「うーんと、はっきり親に話したのは高校三年くらいかなあ」  あの出来事と、同じ時期。嫌でも関連づけてしまう。 「葛藤はなかった? やっぱりまだ、色々風当たりは厳しいことが多いだろ」  聞いてみたかった。どのように公言するに至ったのか。 「煌先生はさ、街歩いてて米軍の人がいたらわかる?」 「そりゃあ何となく雰囲気で、ていうかそもそもまず顔の作りが、違うから」 「そうだよね。人種って、隠せないよね。髪、肌の色や目の色…見た目でわかっちゃうから。じゃあゲイは隠せると思う?」  煌はしばし考えた。 「見た目では、わからない。だから、隠せる…と思う」  例えば十人男性が並んでいたとして、誰がゲイでそうじゃないか、煌には判断できる自身がない。だから創一だってずっと言わないでいたはずし、煌だって知らなかった。 「うん。一見すると見た目ではわかんないよね」  すると海広は小指と薬指を曲が曲がった右手を見せる。食堂で交わした話題だ。 「でもね、さっきの4みたいに。やれって言われても普通にはできないことが俺にはいくつもあった。見た目ではわからないけど」 「例えばどんな?」 「女の子のどの部位が好きかとか、男女のセックスの体位で盛り上がったり」 「それは僕も参加できないけど…」 「煌先生のは疎いからできないだけ。俺の意味合いと全く違う」  その通りすぎて何も言えなかった。 「思春期だったからさ、もう男たちなんてそんな話題ばっかなんだよね。でも俺は話題に入れなくて、それって肌の色を変えられないのと一緒じゃんって思ったのがきっかけかな。ゲイだって人種の一つなんじゃんって。そこまでたどり着いたらあとは簡単だったよ。肌の色が違くったって、周りの人たちは恥じることなく堂々と生きてる。だから、俺も変われない自分の部分を隠さないことにした。それだけだよ」  シンプルで潔く、そして揺るぎない答えだった。 「海広は、強いんだね。とても」  ようやく名前を呼んだかもしれない。初めて羅列する三文字は舌の上で軽く転がって、じんわり溶けていった。 「そうかな。単純なだけだよ。思いついたらやらないと気が済まないんだ。人種もそうだし、他と違うって認識するのってさ、他人が自分をどう判断するかよりも、自分が自分をどう見るかが先にあるんじゃないかって気がするんだ」 「…うん、そうだね」  人と比べて自分はこうだああだと比較する回数は他人からより自分自身の方が圧倒的に多い。毎日鏡で自分の顔を確認するように。 「だからこそ、自分自身に嘘つき続けるのは一番辛いと思ったんだ」  創一は、どう言うだろう。隠せなかったんだろうか。だからあの時、煌に打ち明けたのだろうか。  答えを一番聞いてみたい相手はもう、隣にはいない。 「ちゃんと自分で考えて信じた道を歩んで、すごい。僕は、昔も今も何も変わってない。一人じゃ右か左かも答えを出せないままだ」  代わりに海広に賞賛の意を示した。 「煌先生が? そうかな、毎日たくさん考えて暮らしてるように俺には見えるよ」 「それは、いっちょまえに白衣を着て、顕微鏡眺めてる僕しか見てないから」  言っていたら自分がちっぽけな存在に思えてきて、最後が消え入りそうになってしまった。別に自分だけが特殊な経験をしたなどと、被害妄想はしていない。ただ誰しもが多かれ少なかれ経験するであろう苦くて醜い過去に己は蓋を閉じて、対峙することも振り返ることもなくここまで生きてきてしまった。  深く考えることなど一切せず、こんな風に、目をそらしてきた。 「本当に何もできないやつは、そんな迷いすら浮かんだことないんだよ。少なくとも煌先生は、いいかな悪いかな? って自問してるじゃん」  手のひらが頭に降ってきた。慰められるように撫でられるのを、振り払えなかった。 「その割には子ども扱いだ」 「違うよ。凹んでる人にはこうする決まりなの」 「なんで凹んでるって決めつけるかな」 「だってわかりやすいんだもん、せんせ」  最後に上がった語尾が、とっても優しい響きをしているから、もう全部吐き出してしまいたかった。過去のこと、創一のこと。でも自分は七つも年上で、ただの仕事仲間で、隣人だからそんないっときの感情に流されるわけにはいかない。臆病な子どものままのくせに、自らをさらけ出さないでいられる。  その自制が、笑えた。だってそんなの成長なんかじゃない。ただの武装だ。  とにかく今は、まだ酔っていることを言い訳にして、煌は瞳を固く閉じた。

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