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第13話
一人の部屋に戻り、ことの状況を改めて整理するとむくむくと湧き出てきたのは後悔だった。
確かに稚拙な軽蔑を突きつけられたのは間違いない。しかしそもそも差別発言は海広に向けられていて、その対象である本人が、気にしないとサインを送ったのなら、その意思を尊重して黙認すべきだったのではないだろうか。あの時はただただ状況に腹を立てたが、自分の発言を海広の側から見てみると下手な正義感に囚われた偽善者のような気もして、自己嫌悪が更に重低音で襲ってくる。
苦し紛れに風呂に入ってみても気は晴れず、キッチンに放置していたバケツに目をやる。海広と父が採ってくれた魚と貝に海広の顔が交差する。
あの時、少しだけ曇った笑顔。反対に、明るく何も気にしてない、と言う風に返していた。
大きく外枠を建てた後に薄い壁で部屋同士を区切っただけのちゃちな平家は、隙間から隣の光が細く漏れている。まだ起きているのを確認したら、いてもたってもいられず隣の部屋をノックした。
「さっきは、ごめん」
出て来た海広に、顔も見ず謝った。反応が怖かったので、声が沈んだ。
「ああ。いいよそんなの」
海広は困ったように頭を掻いて、それよりさ、と話を切り替える。
「帰ってね、押し入れ探してたんだけどやっと見つかったんだ。ちょっと庭に集合しない?」
「…果たし合い?」
カツオをメッタメタにした包丁のビジョンが蘇る。
「何を期待してんの。気にしてないって言ってんじゃん。ちょっとお楽しみ」
共同の庭に出るとアウトドア用の椅子が二つ設置されてあった。横で海広が、ステンレスのファイアーグリルを組み立てている。背の低い、座りながら薪をくべられるタイプのものだ。
「去年最後に使って、実家にそのまま置いて来ちゃったかなーと思ったんだけど、こっちにあったよちゃんと」
「いきなりキャンプファイアー?」
「だって、あんなたくさんのグルクンどうするつもりだったの?」
「そりゃあ、いつかは海広が料理してくれる気でいたけど」
「はは、正直でよろしい。だからバーベキューしよう。ご飯まだ食べてないでしょ」
「うん」
父に劣らず本人も十分嵐みたいだ、と思う反面、唐突な海広の思いつきは、煌の気分を少し浮上させた。
「魚、持ってくるね。内臓抜く?」
「煌先生捌けるの?」
「できない。道具を持ってくるだけの係」
笑いの混じった軽いため息が帰ってくる。
「ファイナルアンサー早すぎ。せめて『手伝う』と『頑張ってやってみる』のフィフティフィフティくらいで挑んでよ。…いっぱいあるし面倒だから、さんまみたいに内蔵ごと丸焼きにしよう」
着火剤と丸めた新聞紙を中心に仕込み、炭を煙突状に立てる。マッチで着けた火が徐々に燃え上がる。
「炭、持ってたの?」
「さっき買って来た。あ、沖縄のスーパーはね、今みたいな夏だけじゃなく一年中炭が売ってるんだ」
「僕、無人島に何か一つ持ってけって言われたら海広持って行きたい」
「えーっと、ものじゃないんだけど」
「海広がいたら何があっても生き残れそう」
「よくわかんないけど、ありがとう。さっきも。ありがとう、俺のために怒ってくれて」
「えっ…そんな僕の方こそ、ごめん。海広の気持ち考えないで、出すぎた真似をした」
今度はしっかり謝れた。
「俺、ちょっと鈍感になってたかも。あいつらは別に悪いやつじゃないし、ブスでもデブでもチビでもハゲでもああやって笑うんだから、ゲイ見てもそりゃ笑うでしょって。いちいち目くじら立ててらんないって」
「…うん」
それはある意味では正しい反応なのかもしれない。あんな一瞬で、差別の対象になっていたならば。
「でもああいう雰囲気を許しちゃってたのは確かに今まで何も言わなかった俺なんだよね。煌先生が怒ったとき、雷に打たれたみたいな衝撃だったよ。あそっか、ここって、これくらいのテンションで怒っていいところなんだって」
自分のことに無頓着な海広ならではの反応だ。
「海広はそもそも人に対して優しすぎるんだよ」
「優しいんじゃなくて、諦めちゃってたんだよ。俺、小さい時から自分は漁師になるんだってずっと思ってた。朝日が昇ったらおとんと一緒に船出して、網張って。でもカムアウトして、周りが何となくああいう空気になっちゃったから、おとんの面子もあるし結局漁師になるのやめちゃったんだよね。何も言わなかったけど、戦いもしなかった。まあしょうがないじゃんって」
日中、漁に出る前での父の言葉を思い出す。
健やかに周りから愛されて育ち、人望も厚く友達にも慕われた学生時代を送って、だから率直なカムアウトに至ったのだ、と何となく結論づけてしまっていた。『何水臭いこと言ってんだよ、俺たち仲間じゃん!』みたいな青春ロードムービーにある終幕を勝手に妄想していた。普段のざっくばらんな海広を観察していて、カムアウトしていると聞いて。しかしそもそもそこから自分は大きく見落としていたかもしれない。
ゲイであるということは人種の一つだと話していた時の強い眼差し。人知れず、悩んでいた時期があったからこその、後天的な強さだったのだ。
「でも…。デブだろうがハゲだろうが、それを他人が笑う権利はないはずだ」
励ましにもならないが、確信を持って断言だけはできる。海広を、誰も笑えない。もし誰かが笑ったら、自分が許さない。
動物を飼ったこともなければ一人息子でどちらかといえばいつも守られる側にいた煌から突如溢れ出た擁護欲の原因を探してみる。
海広を弱いと思っている訳ではないから庇護とは少し違う。弟がいたらこんな感じなのかな、などと擬似兄弟を楽しんでいるわけでもない。ひょろっと貧相な自分の肩などすっぽり収まってしまいそうに厚い胸板、見上げないと合わない目線は被食者とは程遠い。性格だってむしろ自分にはかけらもないしたたかさを沢山持ち合わせているはずの海広を、守ってあげたいと義務より天啓より強く思う理由が知りたかった。
「そう。そうやって、煌先生は俺に教えてくれた。だから、ありがとう。それから嬉しかった」
「嬉しいって…」
「煌先生が俺のことであんなに怒ってくれたから。煌先生ってなんか、喜怒哀楽の中で怒のメーターは初期設定で人の半分くらいな感じしてたからさ、今にも怒気でパンって爆発しそうな反応にびっくりして、俺のことでこの人こんな取り乱してんだなって思ったら、嬉しかった」
正直すぎる海広の言葉は面映ゆいよりも煌を安心させた。自分のとった無鉄砲な行動で目の前の男を傷つることがなくてよかったと心底安堵する。
「僕だって人並みに怒るよ」
「人並み以上だったよ。はい、できた」
塩を振ったタカサゴの背を一口頬張る。これまた熱々の身がホロリと崩れ白身魚なのに実に濃厚だ。
「あ、おいしい。唐揚げしか食べたことなかったけど焼く方が断然好き」
「でしょ? グルクンは足が早いから出回るのは揚げて出すのが主流なんだ。こんな風に生に近い状態で食べれるのは釣ったその日だけ」
網の四角ではサザエが待機、食べ頃を教えてくれる料理長のゴーサインを大人しく待つ。
「海広に色んな美味しいもの食べさせてもらってるから、沖縄に来てエンゲル係数が劇的に下がったよ」
「いいことじゃん。広い庭持て余してるんだし、そのうち園芸でもしようか。いっそ係数ゼロを目指してみる」
「本当にやりそうだから怖い」
焚き木なんて燃やすのはいつぶりだろう。海洋研究は、自然と対向する分野であるせいかアウトドア好きが集まる。マイアミでもキャンプなど誘われれば行ったが根はインドア派の煌は自ら好んでしようとは思わないので久しく炎の魅力を忘れていた。
かがり火はパチパチと音を立て火の粉を散らす。一秒たりとも同じ造形は作られないように見えるがもしかしたら万が一の奇跡的な確率で、全く違わぬ形にいつか出会えるかもしれない。見ていたところで記憶はできないけれど、時々炭をくべながら赤く揺れる高温の光を、ただ吸い込まれるように煌は凝視していた。
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