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第14話

「親友が、いたんだ。高校生の時に」  掟を律儀に守っていたはずなのに、気づくと口火を切っていた。 「ずっと一緒にいて、何でもいっぱい話したよ。創一は…色んなことを僕よりたくさん知ってて、僕っていう人間も僕以上によく知ってくれてた」 「うん」  人に話すのが初めてだったから、間違わないよう一つ一つ、言葉を探した。海広は静かに耳を傾けてくれた。 「三年の夏休み前、言われたんだ。好きだって。それがすごいショックで、嫌だった」 「なんで?」 「ずっと隠されてたことに。一番近い友達だって思ってたから。僕が見てきた創一は何だったんだろうって。全部嘘だったの? って」 「全部が全部嘘ってわけじゃないんじゃない。本人、いろいろ言いづらかったんじゃないかな」 「今なら、そうとも取れる。でも、当時はどうしてもそんな風に思えなかった。二年以上も隠してなんでって。あんなに色々自分は打ち明けたのにって。キスされそうになって、怒って逃げて、縁切って、それっきり」 「煌先生、手強いなあ。好きになったら大変な相手だ。親友がかわいそう」 「かわいそうって」  聞き上手な男は同意はしないまでも汲み取ってはくれるものだと打ち明けたのに、心外な一言が返ってきて顔を上げた。 「だってショックだったのって煌先生は、友情の方が恋愛より価値があるって思ってるからだろ」 「そうだよ。だって実際違わないでしょ。恋愛感情は一時の感情で、いつかは終わるものだから、恋人たちは付き合って喧嘩して分かれてを繰り返す。創一から見て、僕たちはそんな簡単な関係だったのかって幻滅したんだ」  ずっと創一との関係が十年後も二十年後も続けばいいと、でたらめな皮算用をしていた。いつかは離れてしまっても、どこにいても。 「うーん。半分正解、半分不正解ってとこかな。煌先生の頭の中には、一つ含まれてないものがあるよ」 「何?」 「愛情」  あいじょう。なにそれ。  肺に砂でも混じったように、呼吸がしにくい。 「恋愛感情と愛情って、全然違うものじゃん。友情とも比べられない。それって、何より一番深いところにある感情だと思わない?」 「じゃあ、創一の僕に対する気持ちが愛情だった?」 「それはすぐにはわかんないよ。愛情はそんな簡単に生まれるものじゃないでしょ」  一足す一は二。簡単な計算も導き出せない子どもを諭す失笑に、ムッとする。 「何でそんなこと知ってるの」 「何でそんなことも知らないの」 「知らないよ! だって、生まれた時からいる家族は抜いて、そんなの経験したことなんてないもん」 「俺だってこれは愛情だって断言できる経験なんて育んでないけどさ、どこかには存在するって信じてる。生涯をかけて愛する相手をいつか見つけて、相手も同じ感情を返してくれる、そんな関係性があるって。…多分、創一さんも。でもその可能性すら、煌先生はハナっから否定してるんだもん。そりゃ同情するよ、創一さんに」  教示は明確だった。誰かがこの会話を聞いても、七つの差でこちらが年上だとは絶対に思えないだろう。 「否定っていうか、思いつきもしなかった」  本音が漏れて、俯いた。  生まれたばかりの我が子を抱き上げる親や、会話もなく通じ合える何十年も連れ添った夫婦…愛とは、そういう人たちのためだけに存在する特別な言葉であって、自分がその中に組み込まれているはずがない、と誰に言われたわけでもないのになぜか思っていた。今の今まで。  愛情とは何を指すのだろう。 「煌先生は、今ならどう思う? その親友との関係は、愛に、変わり得た?」 「…ピンとこない」 「今からでもまだ、確かめる事は出来るんじゃない。連絡してさ」 「絶対、できない」 「なんで?」  戸棚の奥底に隠していた鍵は錆びついて、開けるのに苦労した。パンドラの箱。 「僕が怒って出て行って、それから数日経ったくらいに、自転車で登校途中に、創一が事故でトラックに轢かれたって」 「えっ。大怪我じゃん」 「そう。集中室に一ヶ月いる程の。一命は取り留めたけど、ずっと病院に入院して、結局卒業式にも参加できなかった。それからどうなったかは、知らない」 「煌先生、いつから地元に戻ってないの?」 「高校卒業してからずっと。…今でも事故のこと、信じられない。だってタイミングが良すぎる」 「まさか」 「当日、ちゃんと制服で不自然な痕跡はなかった。トラックの運転手も仕事に遅れてたから焦って法定速度オーバーしてたってちゃんと自供してる。創一には大きな夢もあったし、僕なんかの拒絶で簡単に死に向かうような弱い人間じゃない。わかってる。でも、もしかして僕がそう願ってるだけなんじゃないかってちょっとでも考えると怖くなる。一歩間違ったら創一は死んでいたかもしれない。僕が殺してしまったかもしれないって、今でも思ってる」  今だに時折うなされる夢の中、暗く深い海に向かう創一は煌の想像でしかない。そうであるかもしれないという恐怖が見せる幻想なのだと、油汗が滴り目を覚ましてから、自分をなだめるのにはもう慣れた。でも本当は違ったら? 本当は、煌だけの知る可能性で創一がこの地球上から消えてしまう計画だったのだとしたら? 十年以上経った今でも絡みついた鎖が煌を締め付ける。 「真実を確認することが、『お前のせいで死に損なった』って言われることが、何より怖いんだ。…事故の知らせを聞いてからは、思い返したくもないよ。なんにもやる気なくなっちゃって受験勉強なんかもちろん手に付かないし結果志望大学はボロボロに全滅、毎日とにかくここから逃げたいってことしか考えてなかった。ニート覚悟してたけどそんな優しい親でもなかったし卒業式の日に、すがるみたいに、創一の行くはずだったマイアミ行きの飛行機にとりあえず乗った」 「そこらへんの発想が、振り切っててすごいんだけど」 「本当にちょっと頭おかしくなってたから、逆にそこまでできたんだ。語学学校で必死に半年勉強して、英語がそこそこ話せるようになったら大学に正規入学した。何の罪滅ぼしにもならないけど、自分の何かを創一のために犠牲にしてないと、自分が許せなかった」 「海洋学は、何で?」  以前も聞かれた同じ質問を、今度はごまかせない。 「…創一が見たがってたマイアミビーチが、本当にすっごく綺麗だったんだ。僕はそれまで生まれた街の外にもろくに出たことのないような保守的な人間だったから、青いインクをぶちまけたくらい澄んだ海が初めてで、心から魅了された。それで、海に関する授業を取って、フィールド調査に行くようになって、気づいたらこうなってた」 「全部、きっかけは創一さんだったんだね。今まで煌先生がやってきたこと」 「そう」 「だからかな、煌先生が一定の関係性に対してすごい疎いの」 「一定って何?」 「なんだって言われたら正確に言えないんだけど、感情に所々穴があるんだよね。ネガが繋がってないみたいな感じ。創一って人のさ、どこがそんなに好きだったの?」 「その言い方、語弊がある」 「頑固だなあ…言い換えるよ。友達としてどこがそんなに魅力的だったの?」 「…宗教的な妄信に近かったかもしれない。なんか思想がさ、シニカルではっきりしてたとことか、目標がちゃんとあったとことか、とにかく憧れてたよ。でも冷静に考えたら、アメリカに行きたいとは言ってたけど何がしたいってはっきりした事は、そう言えば言ってなかったっけな」  着実に、一歩一歩いて今の仕事にたどり着いた海広と創一は違った。 「創一の否定はしたくないけど、海広の生き方にあの時出会ってたら、もうちょっと違う見解があったかもしれない」 「煌先生は近いものに懐く習性があるから、創一さんが囲いたくなっちゃう心理、わかるな」 「習性って、鳥じゃないんだから」 「だって現に、俺をすごい優しい善人だと思ってるでしょ」 「違うの?」 「俺だって、あざとく自分の立場を利用する時だってあるんだよ。…こんな風に」  肩を掴まれた、と認識する前に広い胸の中にいた。両腕は水ごと金魚をすくい取るように慎重で繊細に煌を包み込むのに、脱出の術を与えない頑なさを孕んでいた。単なる親しみのハグではない、熱情を滲ませた抱擁だった。突然の出来事だったけれど、驚きはしなっかった。 「ね。完璧なストレートだったら、いきなり同性にこんなことできないでしょ」  耳元の声は、拍子抜けするほどいつも通りだったから、心情は図れなかった。 「じゃあ僕も、利用していい?」  だから心の隅で思いついていた提案を口にした。 「なに?」 「キスしてみて」  沈黙を腕の中で受ける。いいのか悪いのか、どちらとも取れない長いため息が背中から漏れる。 「…創一さんみたいに?」  早押しクイズだったら、一発逆転決勝行きに勝る察しの良さだ。 「…さすがだね」 「だからその発想がやっぱり、振り切ってるんだよね」 「こんな状況じゃなかったら言えない」 「わかったよ」  顎を固定されて、目を閉じた。創一の顔を思い出す。まだ大人の擁護下に置かれあどけなさが残る、それでいて隠しもしない野心がくっきり覗く、真っ黒な瞳。あの時頬をかすめた鼻。  降ってきたのは冷たい唇だった。  秋の落ち葉がはらりと一枚人知れず硬いコンクリートに着地するような、触れるだけのキス。落雷に打たれるような衝撃もなければ、真理を悟る境地にも至らない。あの日の続きはこんな風な結末だったかも知れないし、そうじゃなかったかも知れない。ベータ世界線からタイムリープしてきた別の自分が瀕死の状態で人生を交換しましょうと言ってきても、このキスよりはまだ当事者の気持ちでいれたかもしれない。  創一のキスを受け入れたと仮定して、愛情になり得たか。自分の抱いていた思いは本当に友情だったのか、答え合わせはできない。 「…どう?」 「リップクリーム、ちゃんと塗った方がいいよ」 「あのね」  肩をがっくりと大げさに落とす。だからリアクションが古いんだって、と突っ込む余裕すらあった。 「わかんない。それしか感じない」 「あーあ、せっかくしたのに」 「ごめん」  責められている気がして、なんとなく謝った。 「じゃあ今度は俺から」  二回目の口づけ。  冷えた唇は最初の何倍もの圧力で押し付けられ、煌の唇を割らせた。ねじ込まれた熱い舌が口腔をまさぐった。 「…っ…」  口づけが深くなるにつれ、頭はぼんやり霧がかり、身体が熱くなった。人間が接吻をする理由の一説では交配前に、より自分と異なるDNAを嗅ぎ分けるためらしい。淘汰に耐え得る強い子孫を残すため、己とできるだけ遠い遺伝子を探し出す行為なら、男同士の接吻は不毛であるはずなのに、それでも興奮するのが不思議だった。そして一つ目と二つ目、どちらも一緒の単語をあてがわれた行為が、こんなにも違うということも。  ゆっくりと舌を解放される。 「今のは、正真正銘俺からのキスだからね」  上唇が触れるまま、まだ行為の途中なのか終わったのか判断できない距離で捨て台詞よりぶっきらぼうな口調を投げられる。 「なんで…」 「だって煌先生のこと、俺だって好きだもん。悔しいじゃん」  あっさり腕は解かれた。つい今しがたの深い交じり合いが嘘みたいに、椅子に座り直る海広には、名残りなど一切見えない。 「す、好き…?」 「あーもう、言っちゃったよ。言っとくけど俺今めっちゃ後悔してるからね!」  煌の過去に優しく耳を傾けていたさっきまでとは打って変わり、もう小さな残り火に向かって子供っぽく叫ぶ。 「そんな。…急に当たられても」  自らキスを迫った手前、どんな反応をするのが正解かわからず、間の抜けた返答を落とす。煌は自分の中にある感情を鏡で探る。衝動的な怒りの感情は、とりあえずは映らない。感情の変化がボールだったとしたら、様々な色や大きさのものを四方から投げられ、受け取ることに必死なだけとも言えた。 「あー無理無理、俺には二年もお友達ごっことか絶対無理。好きだって思ったら言っちゃうもん」 「す、好きになったら大変だって、かわいそうだってさっき言ってたばっかじゃないか」 「そうだよ、だから後悔してんの、バカ」 「バカって何だよ、勝手すぎる」  目線の先には放っておかれたばかりに消えそうな火。そういえば、そろそろ暦が変わる。太陽は、どんな風に九月を照らすだろうか。  船の進入に揺らぎ立つさざなみを愛おしそうに眺める薄茶色の瞳や、濡れたXLサイズのウエットスーツを乾かすためだけに存在する船首楼や、潮風を含んではそよぐ金色の毛先を、海広を征服していることへの優越な色で染め上げるだろうか。 「好きになってなんて、愛してなんて言わないよ。でも、俺のことせめて嫌わないで」  かすかに聞こえた声が嫌わないでと告げる。ぼんやり浮かんだ言霊は煌にかける呪文にも、あるいは古くより受け継がれし祈りにも聞こえた。  次いで海広は小さく砕けて灰になる寸前だった黒炭の破片へと厳かに水を注いだ。  つかの間の儀式が終わる合図であるように。

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