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第3話 うっふ えっぐ たまご

 翌朝の七時過ぎ。立花は、朝の仕事を終えて自宅に戻った。 立ちっぱなしの足腰が座りたがっているが、あと少し頑張って、すきっ腹のために朝食を用意する。 水をはったボウルの中には、茹でておいた卵が一つ沈んでいる。水の中でボウルの側面に軽く打ち付けて、満遍なくヒビをいれる。爪でヒビを起こせば、面白いように殻がはがれて光る白身がパーフェクトな姿を現す。 その卵を、半分に割り塩を振った。梅干しと海苔の佃煮を小皿に取り分けて、卵と一緒にお盆に乗せる。 タイマーセットしていった炊飯器には、完了のサインが光っている。蓋をばくっと開けると、もわっと湯気があがる。麦入りだけど、ちゃんと米が光っている。しゃもじを釜に添わせながら底まで差し込んで、ゆっくり米を起こすように持ち上げる。大振りな茶碗にたっぷりよそえば、朝ごはんの完成だ。 ちなみに、梅干しは有実子が漬けたもので、海苔の佃煮は立花が自分で作っている。 「あぁ、腹減った」 庭に面した縁側に、角盆をそっとおろして座る。庭には、東からの太陽をうけて庇の影が伸びている。窓を開け放つと、湿った草と土の匂いがする。ふうわりとミントの香りが漂う庭が、立花は気に入っている。今日は、薄曇りのどっちつかずの空だ。 「いただきます」 誰に言うでもないけれど、手を合わせてから食べ始める。しばらくは、胃袋に米と卵と海苔を交互に流し込むことに集中した。 少し落ち着いたところで、一度台所に戻って麦茶を取って来た。戻る間にグラスに口をつけて、少しこぼした。それを、そのままにしてはおけない。グラスを盆の上に置いてから、改めて床をちょちょいと拭いた。 「あ、痛ててて」 屈みこんだ腰を伸ばしながら立ち上がると、早朝から酷使した腰が疲労を訴える。めんどうだなぁと思いつつ、立花は腰を二三度ひねった。 「そういや、あいつ、ほんとに来たなぁ」 あいつとは?相楽仁のことだ。 数日前、いつものようにケーキを焼いていたら、妙な男が飛び込んできた。そいつは、ひどく唐突に、絵を描きたいのだと頼み込んできた。 「明日も、来るかな。来るかもな」 ふっと胸の奥から何かが吹き上げて、口元が緩む。顔が笑ってしまいそうになるのを、口の端をゆがめるようにして飲み込んだ。 「そんなの、明日になんなきゃわかんないでしょうが」 立花は、空になった茶碗を持って再び立ち上がった。今度は、冷凍庫から一口大の明太子を一つ取り出して、熱々のご飯をかぶせるようにしてよそった。 ご飯の熱で、明太子を溶かしながら食べようという魂胆だ。 それも、あっという間に食べ終わり、帳尻を合わせるように野菜ジュースをグラスに一杯飲んだ。 後は、皿を洗ってまた寝るだけだ。 立花は、食事をした場所をきれいにして、南の寝室から布団を引きずって来た。 風が涼しくて、いい匂いがする。湿度のある風が、弱く不規則に流れている。そんな風にそよそよと吹かれていれば、気持ちよく眠れるはずだ。 今日から、こっちで寝よう。 疲れた体を布団に横たえて薄い上掛けを肩までひきあげると、立花は目を閉じた。 ☆  相楽は、時間通りにやってきた。 まずそのことに、立花はひどく安堵した。時間を守らない人間を待ってやるような、寛大な心は持っていない。来なかったとしたら?きっと静かに傷ついたろう。だから、扉の向こうに相楽の姿を見つけた時、腹の奥の緊張が少し解けるような溜息が出た。 そして、その男はとても静かにドアをあけた。店内に入ってからは、足音を立てないようにしていた。服装も、先日よりかなり大人しい。 ギクシャクした様子が、なんだか面白い。立花は、無言ではあったが、カウンター席を指さした。すぐに察したらしく、相楽はその席に座って道具を広げ始めた。 仕事の手は休めずに、それでも何を使うのかと盗み見ると、何種類もの鉛筆と消しゴムとスケッチブックだった。あんなに沢山の鉛筆、何に使うのかと思わないでもなかったけれど、立花はすぐに仕事に意識を集中した。 正直に言えば、もっと気配がうるさく感じられると思っていた。独り言や何かを落とす音や、うっかり話かけられたりとかで、邪魔をされると思っていた。だから今日は、作り慣れたメニューに決めていた。 でも、それは杞憂だった。 相楽は、ごく静かに鉛筆を走らせていた。一言もしゃべらなかった。そして、鋭い視線は、絶えず腕や指先に注がれていたように思う。時々、鉛筆の音が途切れた。見ると、相楽の目はボウルの中味を気にしているようだった。立花は、立つ角度をわずかに変えて、ボウルの中味を見せてやりもした。生クリーム、卵、バター、小麦粉、砂糖、それにオイルも。何もかもが、計量されてはボウルに集められていく。どうやら、特に卵が気になっているようだった。 立花は、不思議だろう?と心の中でつぶやいた。もしかしたら、少しだけ顔に出てしまっていたかもしれない。 自分の手柄でもないくせに。なんとなく、誇らしいような気持ちがしたのだ。毎日いくつもいくつも使う卵は、千変万化とは言わないが、七変化くらいするのである。 初日の一時間は、あっという間に終わった。 立花は、鉛筆を置いて大きく息を吐いた相楽に、ジンジャーエールを一杯ご馳走した。 自分との約束を守ってくれたことへのお礼のような気持ちがあった。職人のように鉛筆を動かした男への、労いの気持ちもあった。 互いに、一時間自分の仕事に没頭できたなという、軽い達成感のようなものもあったかもしれない。 そんな気持ちの幾ばくかが伝わったのだろうか。相楽は、うまそうにジンジャーエールを飲み干して、いい笑顔を見せてくれた。立花は、思わず二杯目はどうかと手を伸ばしていた。 ☆  緊張していたのだろう。相楽は、予定よりもかなり早く目覚めてしまった。目覚まし時計が無意味なほどに。 寝床でぱっちりと目を開き、時間を確認して思わず苦笑いに顔をゆがめた。 それから、いつも着るランニングウエアではなく、開襟シャツとゆるいデニムをはいた。靴も、使い古したスニーカー。タオルや水の代わりに、スケッチ道具一式を持って家を出た。 夜明け前だが、もう東の空は白白と明るい。地図で見つけた近道を行けば、喫茶シャロンはすぐそこだ。 店に近づくと、ほんのり明るいのがわかる。キッチンの灯りが窓を通して届いているのだろう。相楽は、窓からそっと中をうかがった。キッチンには、立花が立っている。きゅっと布を頭にまいて、オーブンをのぞき込んでいるようだ。入り口ドアのノブに手をかけると、鍵があいている。入ってこいということだ。相楽は、静かにドアをあけて中に入った。  その気配に、立花がくるりと振り返った。目があった瞬間、相楽は挨拶をしようとして、慌てて口を噤んで大きく頭を下げた。その頭をあげた時には、立花は自分の仕事に戻っていた。 追い返されないということは、昨日の約束通り描いてもいいということだろう。相楽は、そう判断して、そっとキッチンに近づいた。なぜか、足音をたてるのが憚られた。カウンターの前に立つと、立花は無言で目の前の椅子を指さした。そこを使えということだろう。ほっとした相楽は、小さく会釈をして、スケッチ道具を取り出した。 描く準備を整えて顔をあげると、目の前では立花が仕事に集中していた。その姿を必死に目で追う。追いつつ、鉛筆を走らせる。でも、とても追いつかない。 窓から盗み見た時は、とにかくひたすら混ぜているように思えたけれど、近くで見ると違った。 大小様々なボウルや泡だて器、へらを使い分けて、大きく小さく、強く、弱く、小刻みに、混ぜていた。 そうすることで、バターはクリームになり、卵白はメレンゲになり、生クリームは、白い雪山のようになった。卵黄と砂糖は、いつの間にかカスタードクリームに変身していた。 相楽にとって、それは驚きの連続だった。必死で手を動かしても追いつけないまま、スケッチの端切れのようなものが、紙面を埋め尽くしていった。 そして、一時間はあっという間に過ぎた。 鉛筆を置くと同時に、深い溜息が出た。息をつめるようにして描いていたらしい。正直に言えば、頭もくたくただ。集中力を使い切ってしまった。それでも、立花の動きを捉えることに必死でアイデアが湧くような隙は無かった。 カウンターの椅子に座って抜け殻のようになっていると、目の前にちいさなグラスが置かれた。中には、透明な液体が入っていて、細く泡が立ち上っていた。 「これは?」 と目で問うと、立花は「自家製ジンジャーエール」とそっけなく答えた。 相楽は、いただきますと頭をさげて、ジンジャーエールをのみほした。炭酸の泡が弾けると、生姜とほのかなレモンの爽やかな香りが体中に広がるようだ。 「あぁ、うまい」 そう、しみじみとつぶやくと、頭の上で小さく笑う声がした。相楽が目をあげると、立花が手を伸ばしていた。 「おかわり、ください」 相楽は、にっこりと笑ってグラスを差し出した。 ☆  ジンジャーエールをご馳走になって、相楽は店を後にした。東の空から昇った太陽は、雲の隙間から力強い光線を送ってくる。まだ人通りの少ない時間帯だ。相楽は、のんびり歩きながら、脳内で今さっきまで見ていた映像を再生して、追いかけていた。 まず、音がする。 カシャカシャと。タプッタプッと。ザリザリと。カッカッカッと。 キッチンからはいろんな音が聞こえてきた。色んな道具を使って、色んなやり方で混ぜていた。混ぜたものと混ぜたものを、別の器で混ぜ合わせてもいた。 その合間に、道具をピカピカに洗っていた。ボウルも計量カップも大さじや小さじも、普通の家庭よりも沢山あるように見えた。その沢山の道具を、迷いなく選んで使って、また混ぜていた。 泡立てたり、摺り交ぜたり、かき混ぜたり。 動作が違うということは、腕や体の動きだって違うはずだ。改めてスケッチブックを見れば、なんとなく違いがわかるものの、線が曖昧だ。 「きっと、もっと違うはずなんだけどなぁ。力の入ってる感じとか、手首で回す感じとか……。あぁ。これも」 中途半端なスケッチだらけの紙の中に、卵がいた。卵黄と卵白に、わけているところだ。勿論、スケッチの出来は散々だ。 あの、個体でも液体でもない重力を持っている感じが、興味深くてひどく難しい。 その卵が、小麦粉や砂糖と混ざり合うと、また別の顔を見せる。その変化の様子が、なんだか気になってしまった。立花の腕と卵。通っている間に、どちらか一方だけでもまともに描けるようになるだろうか。 「まぁ、どっちが作りたいか。なんだけどなぁ」 相楽は、スケッチブックを閉じて空を仰ぐ。 まずは、きっちりスケッチできるようになろう。動きの違いや、素材の変化が見てとれるほどに。 きっと、その差が絵になれば、自分の見たいものや描きたいものがはっきりするはずだ。そして、どうしてあの人を描きたいと思ったのかもわかるはず。 そう、信じることに決めた。

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